子供と移動すると言うこと
子連れの友人から連絡があって、久々に会いたいと言われたので、相手よりの駅まで電車を乗り継いで会ってきた。
彼女は子供の分の荷物と子供をベビーカーに乗せてやってきた。
「今日は暑いね〜」
そんな世間話をしながらでも、額から汗が滴る。幅の取るベビーカーに大きなトートバックが掛けられ、おしめ、離乳食、粉ミルク、ハンカチ、熱中症対策、おもちゃ、日焼け止め、日傘などなど、荷物は多種多様だ。
私は家でしか会ったことがなかったので、外で会う友人の荷物ぶりに驚いた。これが子供を連れた上で「移動する」と言うことなのだと、そこで初めて気づいた。思慮が足りなかったとつくづく思う。(本当に)
その後、駅近のショッピングモール内を歩いてお茶する予定だったので、移動する間、私がベビーカーを押すことにした。だって持ってきた荷物の量も尋常じゃないし、重そうだったからだ。
子供は友人の腕に抱かれて大人しくしていたので、私は荷物係を引き受ける。
さて、ベビーカーを押すだなんて小さな弟のを押していた記憶しかないのではるか彼方の話である。ぼちぼち20年くらい経つだろうか。久しぶりだ〜なんて考えながら押してみたけど、この「ベビーカーを押す」と言う体験がとてつもなく大切だった。
お茶をするための場所を探すにしても常に様々なことが思い浮かぶ。
「「このベビーカーは置けるだろうか?」」と言う不安がつきまとう。
「「子供がベビーカーの上で騒いでも許してくれる店員さんだろうか?」」
「「ベビーカーの幅が周りの人に迷惑かけないだろうか?」」
「「荷物を置くスペースは確保されるだろうか?」」
そんな考え続けながら店を探した。
正直、「ベビーカーを押す」だけでこうも価値観が変わるとは思っていなかった。
だって、
「ベビーカーを押す」だけで道路のちょっとした段差が途轍もない障害となって立ち現れるし、エレベーターの入り口の間口も、駅の改札の幅も常に気にする対象で、日常のあちこちから障害が勝手に降ってくるのだ。
最終的に無印カフェに入りお茶をした。
店員さんは本当に親切にベビーカーのことを考え、席も確保し対応してくれた。ありがとう、無印さん。
椅子に座りながら「私は何も分かってなかったな」と思う。
子供を産んで行動することが、
親になると言うことが、どう言うことなのか、
分かろうとする気持ちはあるし、わかりたいと思うのに、分かれない。理解できていない。だって私は体験していないから。産んでいないから。子供がいないから。
でも、実際に子供を産んでいなかったとしても、ベビーカー一つ押すだけでこんなにも相手のことを考えられるようになるし、相手の視点を持つことが出来るし、体験って大切だった。
想像だけで補える部分にも限度があると初めて知った。
昔、車椅子体験なるものが小学校の時にあった気がするけれど、同じように「ベビーカー体験」を男女問わず家庭科か何かでやって欲しいと痛切に思った。子供を産んで、移動するってこう言うことなんだよって、実感して欲しくて。
子供の頃、手伝いとしてやっていた作業だって、兄弟がいたから出来た作業であって、誰もが経験できる機会とは限らない。
だから、
こういう現実の「生活感」を知る機会として、
また相手を思いやる価値観を持つ上でも大切だと、声を大にして言いたい。
こう言う現実感を知らないままだと、ただ「子供が欲しい」って感情が先行してしまい、こんなはずじゃなかった、だとかそう思うことへの対策にもなるんじゃないだろうか。
なーんて思う1日でした。
子供を産むってこう言うことか、と一言で言い切れるほど、きっと私は体験していない。
けれど、その1部を知る機会があることに感謝しつつ、これからも相手を思いやる気持ちを忘れないでいたい。