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沖縄の瀬底島で

 1994年から1999年にかけて、ぼくは沖縄に入り浸っていた。仕事という名目だったが、実のところは趣味というか遊びだった。
 名目の仕事とは、テレビコマーシャルの撮影である。ぼくはその頃、CMディレクターだったのだ。
 思えば牧歌的な時代で、テレビCMといえば南国のきれいなビーチに水着の若い女がいればよかった。今となっては信じられない話だがこれは本当だ。ほとんどの広告主がその程度の内容で概ね満足していたのである。
 しかし水着の若い女の撮影といってもピンキリだった。つまり、カネがかかった女はカメラ映りもいいから、その女が持っている商品だってよく見える。貧相な女が持つ商品は貧相に見える、そういうことだ。なんでもかんでも水着の女を出しておけばいいというものでもなかった。
 ピンキリの「ピン」、つまりビッグネームの、予算がたんまりあるスポンサーのCMはハワイで撮影するのがほぼ決まりだった。次のランク、まあまあカネはあるというスポンサーのCMはグァムかサイパンが舞台である。沖縄で撮るというのがはっきりいって底辺クラスのCMで、ぼくはそういう「キリ」の世界にいた。そして、ダメな人々に共通の特性であるが、
(こんな世界、いつでも脱出してやるぞ)
 と思いながらいつまでも抜け出せずにいるのであった。

 就職に際して、業界の評価としては三流の、低予算のCMばかりを手がけている制作会社に拾ってもらったという義理もあるにはあったが、実はそこにいるのは楽だった。向上心を捨ててしまえばある意味人生は楽なのだ。
 その会社に長くいるような、いわば底辺に停留しているような人たちには向上心がなく、楽をして日銭を稼ぎ酒を飲むことばかり考えていた。
 朱に交われば赤くなる。
 ぼくも気がつけばいつしかそういう底辺スタッフの一員になっていた。

 それにしてもなぜ沖縄だったのか。
 いちばんの理由はとびきり安く使える外人モデルがいるからだった。つまりギャラが安い。その正体は在日アメリカ軍人のワイフや娘である。素人モデルだ。こちらとしてはその正体がなんであれ、白人でスタイルがそこそこ、そして水着を着てくれればそれでよかった。多少の欠点には目を瞑った。なにしろ素人なのだ。名の通ったモデルエージェンシーに所属する一流モデルに比べると彼女たちのギャラは破格に安かった。一流モデル一人分のギャラで十人は雇えた筈である。その程度の金額で出演を引き受けてくれたのだ。沖縄にはそういう半分素人のモデル専門エージェンシーが存在した。
 彼女たちのいちばんの特徴。なにしろ駐留アメリカ軍の家族なので、入れ替わりが激しかった。父親、或いはハズバンドである軍人が転属になれば、自動的に彼女たちもいなくなるのだ。そういう儚い運命を抱えたモデルたちだった。最も、彼女たちにしてみれば単なる小遣い稼ぎ、アルバイト感覚であってプロ意識などかけらもなかった。何故日本人が、「白人である」だけの理由でちょっとポーズをつくるだけの自分にかなりまとまった額のギャラをくれるのか全く理解出来ないまま現場に来ては映像に収まり、或いはスチル撮影の被写体になり帰って行った。
 ぼくたち底辺スタッフもまた、作品(一流の売れっ子スタッフはCMをこう呼んでいたがぼくはとてもそんな気にはなれなかった)の質を少しでも上げようとか、このCMで一発当てて人生を変えようとかいう野心はさらさらなく、そもそもディレクターであるぼくなどはどんな理由があれ、ただ沖縄に来ることが出来ればそれでよかった。そういう不純さにかけては純粋だった。
(とにかくこの夏沖縄に行けさえすればいい、そしてよく冷えたオリオンビールをたらふく飲むんだ)
 当時それがぼくの人生におけるいちばんの願いだった。CMの内容がどれほど屈辱的であろうが、恋人や親にはとうてい言えないような恥ずかしい表現であろうが「沖縄に行けさえすれば」ぼくは目を瞑った。愛する人に巡りあい、愛しい子供が生まれたとして、「これがお父さんの成し遂げた仕事だよ」と胸を張ってとても言えないような内容であろうと、ぼくは自分にそれを許した。それほど夏の沖縄に行くことは、当時のぼくにとって一年で最大、最重要のテーマだったのだ。その年の夏、沖縄に行けないのであれば、その年は負けであり終わりだった。

 そういう理由からぼくはとにかく請け負った全ての仕事(つまり撮影)のバックグラウンドをまず沖縄に設定し、企画を提出した。強引に沖縄ロケにもっていくためである。今思えばほとんど狂気の沙汰といっていいい。何しろ北海道に本社がある会社のPRビデオですら、企画書での舞台は何故か夏の沖縄になっていた。それでも「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」でぼくは毎年夏の沖縄に出かけて行き、己の欲望と欲求を満足させていたのであった。

 予算の節約のため(というより自分の沖縄滞在時間を延ばすためといっていい)、撮影クルーは東京から連れて行かずに、地元沖縄の技術会社を使った。これで飛行機代が節約できる。沖縄のスタッフは腕前、技術は東京の連中に比べれば見劣りはしたが、ぼくはそのことにも目をつぶった。
(どうせ誰も見てないCMだ)
 という意識が頭の中にあったからだ。それでも沖縄は光が強い。光量があるということは、よい写真や映像を記録できるということにつながる。事実、沖縄で撮った映像を見ては、
(あんなに手を抜いたのにけっこういい画が撮れているじゃん)
 といつもぼくは不思議に思っていた。
 沖縄のカメラマンはミヤザトさんという人で、プロゴルファー宮里藍と同じ「宮里」姓である。しかし親戚ではない。沖縄には宮里姓が多いのだ。確か大城の次が宮里なのだ。石を投げれば宮里さんに当たるというのは本当だ。

 CMには決まったパターンがあった。まずは水着の白人女性(当然ビキニ)がビーチを歩いたり寝そべったりするデイシーンがある。これは早朝に撮影した。真夏の沖縄で日が高くなってから働くようなバカはいない。命に関わる。何しろ朝六時、太陽が顔を出すと同時に気温は三十度をはるかにこえるのだ。早朝一時間ばかり仕事をして、あとは夕方を待つ。きれいな夕景を撮るためだ。それ用のビーチは決まっていた。どんな種類の仕事だろうとそこに赴いた。那覇からはちょっと遠いが沖縄本島の西側、真ん中より少し上のあたりに瀬底ビーチというビーチがある。瀬底島という小さな島の西側にあるビーチである。夕景の撮影はそこで決まりだった。カメラマンのミヤザトさんお勧めの夕景スポットであった。

 瀬底島は本部半島の西に位置している。かつては船でしか渡ることの出来ない離島だったが、後に(よしときゃいいのに)瀬底大橋という鉄筋コンクリートの立派な橋がかけられ、車で簡単に渡れるようになってしまった。残念なことに、ぼくが沖縄に通い始めた頃には既に瀬底大橋は出来上がっていた。沖縄海洋博の時に作られたものだと思われる。だからぼくは、コーラルグリーンの海を小さな渡し船で渡りこの島に行くという経験がない。かつて瀬底島の小中学生は、渡し船で本部半島の学校に通ったという。それはうらやましい限りだ。

 この、瀬底大橋を本部半島側から渡ってすぐ左のところに、〔パーラーハワイ〕はあった。
 パーラーとは、昭和初期に流行った喫茶店と軽食堂を足して割ったような店である。探せばまだ全国のあちこちに何軒か残っている筈だ。東京でいうなら〔資生堂パーラー〕とか。
 しかし、我らが〔パーラーハワイ〕はそれほど高級なしろものではなく、それこそ喫茶店に毛の生えたような店だった。特筆すべきは店の入り口を入るとすぐのオープンテラスだ。十二畳ほどのスペースでパラソルを真ん中にさすタイプの丸いテーブルがいくつか置かれていた。椅子は骨がアルミで、濡れた水着のままでも座ることが出来るカラフルなビニールで編んだ座面のタイプだった。そしてこれが何よりも大切なのだがオリオンビールのよくよく冷えた生ビールをジョッキで飲める、その上人力手回しのかき氷を作る機械で甘い人工甘味料のたっぷりとかかったかき氷も食べられる、そういうところだった。これをオープンテラスでやるととても幸せな気分になるのである。

 パーラーハワイから見下ろす海岸にはとても小さなビーチがあった。まるで店のプライベートビーチのような感じである。ひょっとしたらこのビーチが先にありきだったのかもしれない。そのビーチ専用の海の家みたいなものだったのだ、おそらく。

 ぼくはこのパーラーハワイがすごく好きだった。いや、ほとんど「愛してる」といってよかった。沖縄に来ると必ず立ち寄るスポットのひとつとなっていた。
 まず名前がふざけている。なぜ沖縄で「ハワイ」なのだ? 思うでしょう普通。そしておそろしくレトロな書体の店名ロゴ。昭和初期の刻印だった。店員は若いアルバイト女性と地元のおばさんである。最後までついに誰がオーナーなのかマスターなのかは気にかけたことがなく知ることもなかった。

 朝の撮影が終わると決まってぼくたちはパーラーハワイに直行した。そこで「とりあえずビール」と息せききってオーダーした。当然大ジョッキだ。これが面白いようにすいすいと喉に吸い込まれていった。二、三杯飲むとランチタイム。だらだらとソーキそばなんかをつまむ。体調がいい時は泡盛だって飲んでしまう。オンザロックだ。そして昼寝。目が覚めるのは夕方だ。そして目覚まし代わりにかき氷を注文する。これがたいてい五時ごろだった。そこからひと仕事。瀬底ビーチでは運が良ければこの世のものとは思えないほど美しい夕陽に遭遇できるのである。基本的にはそういう千載一遇のチャンスを待った。しかしそこそこきれいな夕景でもいっこうに構わなかった。何しろ主役の女性モデルはしろうとなのだ。被写体としてやっぱりいまいちなのである。だからバックグラウンドなど本当はどうでもよかった。そこそこきれいな夕景でも、息をのむほどの夕景でも。映像全体としてはたいした違いは出ないのである。

 太陽がだいぶ西に傾いた頃ぼくたちはパーラーハワイを後にする。目指すは瀬底ビーチだ。そこできれいな夕景、ビキニ姿の女性のシルエット、海に沈む夕日などを撮影し、仕事は終わりとなる。ちょっと気に入らないぐらいではリテイクなどしない。もはや撮影の最中に心は終わった後のオリオンビールに飛んでいる。うまい具合に瀬底ビーチにも海の家があって、オリオンビールの宣伝用ののぼりが風にはためいていた。そこではよく冷えたジョッキに入ったオリオン生ビールを提供していた。ジョッキそのものも冷蔵庫でキンキンに冷やしてあり、出てくる時には表面に霜がびっしりとついていた。これはうれしかった。海に沈む夕日の残照を眺めながら飲むこのオリオンビールもまた最高だった。
(ああ、俺はこのために生まれてきたんじゃないだろうか)
 そんなことをしみじみと思ったものだ。ばかだなあ。

 不思議なもので、足繁く通っていた土地にもぱったりと行かなくなる時ず訪れる。惚れ抜いた女がある日突然嫌になるのと同じように。
 ぼくはある夏を境にぱたりと沖縄に行かなくなってしまった。それはCMディレクターという稼業に見切りをつけ、海外取材番組のディレクターに転身したからである。
 ぼくはそっちの世界にすぐ夢中になった。熱しやすく冷めやすいのは生まれつきの性分でどうにもならない。番組ディレクターとしてはまったのは南米だった。今にして思うと沖縄体験という下地があったから南米にはまったのだろう。南米にはやはり沖縄と同様、独特のゆるさがある。生真面目な人には耐えられないだろうがぼくは体質的にそういういい加減さが好きなのだ。自分もそうだからかもしれない。しかも南米大陸はあまりにスケールが大きく、ぼくは毎年の夏沖縄に行くというルーティンを捨ててしまった。

 それから五年ほどがあっという間にすぎた。
 その年の冬、ぼくは久々に沖縄を訪れた。「石敢當」を撮影するためだ。ミャンマーで取材をしていたぼくは、そこであの懐かしい石敢當を目にしたのだ。石敢當は一種の魔除けで、沖縄では道の突き当たりや角に立っている。明らかに風水と関係している。道にあるものの多くは、「石敢當」と漢字が刻まれた石塔である。石の壁に、その文字が刻まれたプレートが嵌め込まれている場合もあった。ぼくがミャンマーで目撃したのはこのプレートタイプだった。
(沖縄とまったく同じものが何故ミャンマーにあるんだろう……?)
 というところで不思議に思ったぼくはミャンマーからの帰り道沖縄に立ち寄った。ミャンマーと沖縄の石敢當の関係を探ったのである。その結果知ったのは、石敢當は中国から来たものでやはり風水に由来するものである、ということだった。
 那覇市内での石敢當の撮影が終わると、ぼくは昔の習慣に引っ張られるように瀬底島を目指した。カメラマンのミヤザトさんが運転する車で。沖縄本島での石敢當の撮影を彼にお願いしていたのである。車はニッサンサファリだった。黒く大きな四輪駆動車である。黒いボディカラーはすぐ熱を持つから日差しの強い沖縄には向いていなかったし、四駆の性能を発揮するような場所も沖縄にはあまりない。でもいいじゃないか。彼はその車が気に入ったのだ。好きだったのである。人間なにかを好きになるには理由はない。好きになったものはしょうがないのだ。
「いやーわたしもあれから瀬底ビーチには行ってないんですよ」
 ハンドルを握るミヤザトさんは那覇から本部半島に向かう道中でちょっと恐縮する体で頭を掻いた。
(いや別にいいんですよ、長年来なかったぼくも悪いんだし)
 とぼくは言いそうになったけどやめておいた。その代わりに、
「そうですか」
 と何気なさをよそおい答えたのである。地元に住んでいるならそんなものかもしれないな、と思ったのだ。
 
 やがて車は瀬底大橋にさしかかった。もうじきあのパーラーハワイに再会できる。ぼくの胸の鼓動は高まった。
 しかし——
 パーラーハワイはそこになかった。

 廃墟になっていたのである。

 そこには建物の土台のコンクリートが残されているだけだった。土台の上にあった店舗部分は跡形もなくなっていた。残る土台の三分の一ほども周囲の雑草が侵食してきて覆い隠されている。
 ぼくはしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くした。あると思って来てみたらある筈のものが失われていたというのはかなりのショックである。しかも完全に姿を消したのではなくコンクリートの土台だけが残っている状況は無惨だった。
「あきさみよー」
 とぼくの隣に立ったミヤザトさんが呟いた。こりゃびっくりしたなあ、という意味の沖縄の方言である。
「どうしてだよ」
 とぼくは呟いた。
 するとぼくを待っていたかのように海からの風が突然吹きつけてきた。小雨が頬を打った。季節は冬である。十二月だった。冬の沖縄は天気が悪い。雨と風は、打ちひしがれたぼくの心に追い討ちをかけるようだった。
(もはやこんな所にいてもしょうがないか……)
 ぼくはかつてパーラーハワイがあった場所に別れを告げることにした。
「帰りましょう」
 とミヤザトさんに声をかけた。「那覇に戻って、酒でも飲みませんか」

 ミヤザトさんは店の残骸を見つめたまま、「そうですね」と気の抜けたような返事をした。彼もまたショックを受けているようだった。
 それはある時代の終わりを物語っていた。むやみやたらと沖縄を訪れ、オリオンビールと泡盛を飲んで馬鹿騒ぎを繰り返したり、パーラーハワイでアメリカ軍人の奥さんや娘さんとかき氷を食べながら夕陽を待つ、そういう時代が終わったのである。青春時代というものがあるならば、あの日々はまぎれもなくそうだった。
 ぼくは冬のパーラーハワイ、というかその残骸に背を向けた。
 あれ以来瀬底大橋を渡ったことはない。当然、瀬底島にも足を踏み入れたことはないのである。


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