年賀状の絶滅
まさか、年賀状の絶滅に立ち会うとは思わなかった。
年賀状が絶滅の危機に瀕している。
年賀状が堕落した原因は、印刷にある。ワープロもよくなかった。プリントゴッコも。つまり、手書きをしなくなったせいだ。心というか誠意が伝わらなくなったのである。
印刷された年賀状も最初は斬新だった。ワープロによりきれいに印字された宛名。裏面の本文。やがてパソコンとプリンタが普及し、裏を写真やイラストが飾るようになる。
許せないのは、子供の写真だった。いつからか家族持ちは、自分たちの子供の成長ぶりを年賀状に印刷するようになったのだ。
(夫婦の性交の成果を見せつけられてもなあ……)
という思いが、ああいう年賀状を受け取ると頭のどこかに去来する。あれは、独身者に対する差別といっていいかもしれない。つまり分断を生んだのだ。今流行りの言葉で言うならば。
また、きれいにプリントされた賀状が、やがて広告のチラシのように見えてきたことも事実である。皮肉なことに、パソコンとプリンタの性能、精度が上がれば上がるほど年賀状から誠意が消えていったのだ。
果たしてあそこまで綺麗に、美しくする必要があったのだろうか。ハガキ代にプラスしたかなりのコストをかけてまで。年賀状は所詮ハガキである。芸術作品ではない。いつしかゴミ箱、あるいはシュレッダーにぽい捨てされる運命にあるのだ。
そりゃあ何百枚も出す人だったら大変かもしれない、それだけの枚数を手書きにするのは。
しかし本当にその何百枚はその人にとって必要だったのか?
要はそこである。誠意のない、まったく心のこもっていないチラシのようなハガキであればメールと同じではないか。
かくして年賀状は(正確にいうと年賀はがきは)滅亡の道を辿ることになった。
郵政民営化もまた、原因のひとつだろう。何でもかんでも民営化すればいいというものではない。年賀状は、「御上」がやっているからよかったという側面がある。親方日の丸の安心感とでもいうか。
あれは私怨だろう。郵政大臣の時現場や担当から何らかの形でプライドを傷つけられた男が、やがて総理大臣という権力を握り、仕返しを果たしたのだ。何という狭い了見の男だろうか。しかし国民は熱狂した。やがてその熱狂が、自分たちの首を締めることになるとは気付かずに。
私怨といえば、その次に総理大臣となった男もそうだった。最初に総理になった時、マスコミの手の平返しに遭い体調を崩し退陣に追い込まれた。野に下った期間、彼は徹底的にマスコミ対策を練り上げた。そして復活すると、その対策を見事に実行した。徹底した情報管理と「お友達」の囲い込み――自分に都合のいい情報しか流さない連中をファミリーの如く囲った。おりしもパソコンの普及により、キーボードとディスプレイしか見なくなった記者たちが総理の作戦を助けた。彼らが取材対象者の顔を見て質問しなくなったからである。牙を抜かれた報道エリートたち。ある意味マスコミの自壊であった。
記者会見で、顔を上げない記者たち。質問する者と質問内容はあらかじめ決められている。完全な情報操作だ。あれはかなり異様な光景である。小学校の教室だって、子供たちはもっと顔を上げている。こうして日本は嫌な方向に流れ始めた。
そして総理と一部の取り巻き連中が権力をより強固なものとし、我が世の春を謳歌する間、年賀状はどんどんすたれていった。
逆に手書き年賀状を国民の義務にすればよかったんじゃないか、と思うことがある。そうすればこの、殺伐とした世の空気も正月ぐらいは和らいだのではないか。手書きにすれば、相手のことをより思い文面を考えるようになるだろう。内容は多少あたたかいものになる筈だ。義理人情の復活である。「男はつらいよ」、寅さん時代のお正月のような。
しかし、残念ながらもうそんな時代は来ないだろう。このまま行き着く所まで行ってしまうのか。抵抗の手段はもはやないのか?
元総理よ、今さら原発に反対してもらったって困るんだ。それを言うなら現役の時に言ってくれ。郵便局も元に戻してくれ。心のこもった、手書きの年賀状が行き交う時代をもう一度――という風に思う年の瀬である。腹立たしいのでこの原稿の下書きは万年筆で書いている。
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