居候
彼女が居候してもう1週間はとうに経っている。
彼女と私はアルバイト先も一緒なので、この1週間はずっと彼女と過ごしていた。
「振られた。」
電話越しで泣きながらそう伝えられた。
幾度となく「意味がわからない。」と吐き捨てるように呟いていた。
励ます言葉をかけることができず、むしろ腹の中では、「一度くらい大失恋を経験できてよかじゃないか。」と思っていたのは彼女へ口が裂けても言えない。
一年ちょっとの関係だったらしい。
ほぼ同棲をしていた。
「一緒にいすぎたのかもね。」
「好きだから一緒にいるのに、そのせいで別れるなんて意味分かんない。」
「そうだね。」
濡れ手に粟な返事しかできない自分が情けなかった。
「美味しいサーモンが食べたい。」
深夜1時、唐突にサーモンを食べたくなった。
居酒屋でサーモンを配膳したり切ったりしていると、サブリミナル的にサーモンが刷り込まれてしまった。
サーモンが食べたい、サーモンサーモン…。
気がついたらサーモンで頭がいっぱいになっていた。
サーモンには種類がある。
以前、駅前のスーパーで購入したサーモントラウトがあまり美味しくなかった。
筋があって脂が少なく、全体的に硬く食べづらかった。
一切れ500円もしたのに、だ。
「あたし原付やから勝負やな。」
私の相棒は自転車だ。
何度も何度も倒してしまったボロボロの自転車。
勝つわけがないのに、勝負だ、と意気込んで立ち漕ぎで家を出た。
一瞬で追い越されて、彼女は暗闇へ消えていった。
スーパーにはアトランティックサーモンが置いてあった。
トラウトよりも脂が乗っているらしい。
一切れ500円越え。高い。
それでもあくなきサーモンへの探究心を止めることはできない。
サーモンが食べたい。サーモンサーモン…。
食品のみならず、家電や雑貨なども置いてあるスーパーであった。
おもちゃコーナーに粘土があった。
「あたし粘土でぱるむ作るわ!」
そう言って、彼女はいくつかの紙粘土と3原色と白色の絵の具だけを満足そうにカゴに入れた。
私も便乗した。
創造力が無いので、既製品の粘土セットを購入した。
2人でモノボケをしたりおもちゃについて懐かしんだり、ただの深夜のスーパーなのに、それはまるで幼い頃母親に連れて行ってもらったおもちゃ屋さんのごとく高揚感でいっぱいだった。
アトランティックサーモンは、確かにトラウトよりも美味しかったけれどもう2度と購入しないだろう。
コストパフォーマンスが悪すぎる。
サーモンを食べながらあれやこれや言いながら、2人で朝まで粘土で遊んでいた。
そんな22歳でもいいと思う。
「あたしまだ◯◯のこと好きだな。」
まるで時報のように、1時間に一回はそう呟いた。
私がサーモンを手に入れるまではサーモンのことで頭がいっぱいだったのに、いざサーモンを手にすると「こんなものか。」と思ってしまうこの愚かさよ。
好きという気持ちは時に暴力となる。
愛は暴力だと思うときがしばしばある。
最近彼女が妙に優しい。
私のことを褒めてくれるのだ。
それも嫌味な感じではなく、はたまた見返りを求める感じでもない。
「今日めっちゃ褒めてくれるじゃん。」
と言うと、
「愛されたいから愛してるねん。」
と言われたので、2人で大笑いをした。
愚かな2人である。
4、50代になったら仕事を辞めてスナックのママをしてみたい。
若い20代のアルバイトの子が客のおじさんに絡まれているのを見て、「若いわね。」と静かに微笑んでいたい。
常連のお客さんの中で素敵な人が1人いて、その方が来店すると少し鼓動が早くなりたい。
そしてそれが若い20代のアルバイトの子にバレバレでありたい。
「どんな常連さん?」
「うーん…。」
ぽつぽつと彼女に理想の人の画を説明していると、
「それって今あんたの好きな人の話してる?」
と言われて吹き出してしまった。
「あなたもずっと◯◯の影を追って恋愛すると思うよ。これは呪いだね。」
「あたしもそう思う。」
恋愛について彼女は私に問いかけてくる。
「あたしはぱるむとこういう漠然とした話がしたかったんだよ。」
なぜかその時の彼女を鮮明に覚えている。
漠然とした話。
彼女には何でも話すことができる。
抽象的な話も具体的な話も。
それを同じように彼女も思っていてくれていたのか、と思ったから鮮明に覚えているのかもしれない。
こういうのでいいのだ。
あえて好き、会いたい、なんぞ言わなくたって、日々の生活を半分こして、日々の中で互いが互いを想っている欠片を集めて眺めるだけでいいのだ。
私にとって好きな人と一緒に暮らすということはそういうことなのだ。
好きすぎるがあまり、頭の中をそれで埋めないように。
愛しすぎるがあまり、相手の首を締めないように。
普通はそれが許されるからこそなのだが。
人間は面倒臭いとつくづく思う。