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引力

 どれだけ忘れようとしても、また自然と忘れていたことでも、そのものが属している範囲に入れば、また出会ってしまうものですね。縁と言えばよいのでしょうか、そんな、引力のようなものを私は時々感じます。

 高校時代に、私は啄木の短歌に出会いました。というより、再会でしょうか。以前にも中学の授業で「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」の短歌を習ったことはあったのですが、その時はとんと興味もわかずに記憶の隅にも残っていませんでした。高校に入ってから少しずつ文学に興味を持ちはじめたときに、母の遺品の中から新潮文庫の『石川啄木集』を見つけました。読んでみたところ私はすっかり彼の歌に惹かれてしまいました。
 

  につたふ
  なみだのごはず
  一握の砂を示しし人を忘れず

  こみ合へる電車の隅に
  ちぢこまる
  ゆふべゆふべの我のいとしさ

  「さばかりの事に死ぬるや」
  「さばかりの事に生くるや」
  止せ止せ問答

  非凡なる人のごとくにふるまへる
  後のさびしさは
  何にかたぐへむ

 他にもたくさん、彼の歌で好きなものはあるのですが、とりあえず、思いついたものだけ4つ挙げてみました。啄木の短歌は、よく親しみやすいと評されていますが、ほんとうにその通りだと思います。誰もがかかえている自信のなさだったり、その裏返しからくる他人への僻みだったり、そういうのを不意に突いてくるような歌ばかりです。
 中学生のときはなんとも思わなかった、自然と忘れていたけれど、高校になって文学にはまった途端、またこうして出会ってしまう。さっき言った引力のはなしに近いと思います。大学に入る頃には啄木から離れて、しばらく日本の宗教文化の本を読み漁っていたのですが、そこから古事記、古代歌謡、万葉集、和歌、そうしてまた短歌にたどり着き、今はまた啄木の歌集を鞄に入れていたりと、私は一生、啄木の引力からは離れられないのだと思います。

 花の名前を、最近また覚えはじめました。高校時代にはよく、学校をサボって自転車でふらついていた時に、偶然見かけた花の名前を調べたりしていましたが、大学に入ってからは花への関心も薄れてしまい、ほとんど忘れていました。3年前に、短い期間ではありますが、付き合っていた方がいて、その人とよく公園に出かけては、あの花はなんていう名前で…みたいなことを教えたり、話し合っていたけれど、今はもうその花たちの名前がなんだったのかも思い出せません。その人と別れて以降、知らない花を見かけても、名前を調べたりすることもなくなりました。もしかしたら、その時の2人のことを思い出さないように、私は花の名前ごと全て忘れようとしていたのかもしれません。忘れることはいい薬だと思います。

 普段何気なく通り過ぎる路傍の花にも、昔の誰かが名前をつけていて、誰もその名前を知らなくなったって、毎年おなじ時期になると咲き続ける。花ってずっと誰かを待っている幽霊のように思えてきます。人間の主観でしかありませんが、花という幽霊が成仏するときは、誰かに名前を覚えてもらった時なのかもしれません。私はまたしばらく、花の名前を拾っていこうと思います。この前は、電柱の裏に佇んでいた花の名前が芙蓉だと知りました。

 3日前、きれいな羊雲をみました。秋が来たと感じます。羊雲に似た雲で、うろこ雲なんていうのもありますが、私は正直どちらのちがいもよくわかりません。調べたら、どうやら雲の成る高さのちがいらしく、高い位置にあるのがうろこ雲、低い位置にあるのが羊雲と言うそうで、高い位置に雲があれば太陽の光が全面に反射するので、うろこ雲は影がなく、反対に、羊雲は低い位置にあるので下部に影ができるそうです。その時に撮った写真を見返したら、影があったので、きっと羊雲なんだと思います。こうして知ったことも、私はまた忘れるのでしょう。そうして、また来年か再来年、もしかしたら何年後かもしれません、その時の今ごろ、私は2つの雲のちがいを調べているかもしれません。

 最後に、最近作った歌を載せます。

・芙蓉ゆれば流るる風に匂はなも その名知るわれはしばしとどむるに

・あからく朝日ふふめて花櫚かりんなると黄なる実に添へし白き手を思ゆ

・教科書や辞典にもないこの「なにか」の名前付けたくて秋の日をあゆむ


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