おぼこ娘が頬杖を つきてもたるる 窓の桟 月光の光 うそぶきて 氷雨のごとに ふりそそぐ 娘の袖はそぼちつつ ただ空想の春の日を 胸にえがきてまた消して… つとに夜は明け 玄関を開きて農夫 朝仕事 取りかかるなか おぼこ娘 春を消灯し ふうつと眠れり
わたしはなりたい、 あの海を一滴のこさず ひと息で呑み干してしまえるような おおきな鯨に わたしはなりたい、 こんな真っ赤な太陽を 翅を広げるだけでおおいかくしてしまえるような おおきな蝶に わたしはなりたい、 この街も人もあの山も 歩くだけで微塵もなく踏みつぶしてしまえるような おおきな象に わたしはなりたい、 そうしてだあれもいなくなった地球で ひっそり地表におりてきてゆっくり、ゆっくり死んでゆく ちいさな蜉蝣に
"われは空虚に過ぎ去ってゆく時間を愛す" 鈍色の空をみあげて、 なほ仰け反ってみると、 公園のフェンスが視界の上部に あらはれ出でた。 緑青がひどく錆びついて、 佇んでゐる、網目…。 なんにも縋りつくことができない 開放された灰色の 全景のなかにそれはあつた。 唯一、空に落ちてゆくわたしに 縋らせてくれる最後の砦のやうだつた。 緑青がひどく錆びついて、 佇んでゐる、網目…。 ついぞわたしはそれを掴まなかつた!
どれだけ忘れようとしても、また自然と忘れていたことでも、そのものが属している範囲に入れば、また出会ってしまうものですね。縁と言えばよいのでしょうか、そんな、引力のようなものを私は時々感じます。 高校時代に、私は啄木の短歌に出会いました。というより、再会でしょうか。以前にも中学の授業で「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」の短歌を習ったことはあったのですが、その時はとんと興味もわかずに記憶の隅にも残っていませんでした。高校に入ってから少しずつ文学に興味を
タマスダレの花が咲きました。鋭く尖った花弁が、どことなく秋の寒さを感じさせます。 フランスの近代詩人アンドレ・ジイドの『新しき糧』にこんな一節があります。 「"よく己を知ろう"と苦心する毛虫は、いつになっても蝶にはならないはずだ。」 ジイドの作品は、一貫して「観念からの解放・それによる自己の確立」を謳ったものが多いです。寺山修司の引用で有名な、「書を捨てよ町へ出よう」なんかもそういった意味が込められていると感じています。 たしかに、私たちは日々過ごす中で、印象
ある人の日記で気になる内容のものを見つけましたので、載せます。 〇 1988年7月18日(月) とくに理由はないのですが、今日は部屋で一人裸になってみました。姿鏡の前にたつと、普段は気にしていなかった自分の身体のあれこれが、くっきりと現れたように感じました。いつもは無造作にまとめていた髪がこんなにも長くなっていたんだとか、自分の肩って意外と角ばっているなとか、ちょっと恥ずかしいですけど、乳房が左右でちょっとばかし大きさがちがうとか、おしりの辺りに見たこともなかったホ
授業の毎週の課題で短歌を作っています。担当してくださっている講師は、名前は伏せますが有名な作家さんで、大学の頃から短歌会にて作歌してきた方でもあります。授業の毎度、おのおのが作ってきた短歌を批評しあうという形で進めているのですが、なかなか、いい批評をもらうことができません。 とりあえず、今まで作ってきた歌の一覧を挙げておきます。 ・そよぎたる風にまぶたを閉づる妹の昼のやさしさを我は忘れめや ・毎日、毎日、毎日、水をやって成ったこの実にも現れたのか ・がらくたとな
秋です。衣替えをしました。 ひとり暮らしをしていると、日に日に生活に疎くなっていく気がします。私だけかもしれませんが。作り置きがめんどうになってきて、コンビニのカップラーメンや、外食ですませる日が多くなって。最近は食べるのすら気力が湧かなくなって、1日2食だったり、午後3時頃に昼食をしたりと、かなり変則的な食生活になってきました。今は便利なもので、インスタントカレーなんかもコンビニで手に入るので、私のようなだらしのない人の食は偏っていく一方です。怖いですね。 食生活が
はじめまして。但馬吟と言います。読みかたは「たじま ぎん」。 私は、あんまり文章が上手ではありませんが、とりあえず、日々自分が思ったことをつらつらと書き残していければと思います。ちなみに、私は都内の大学に通っている大学3年生です。 私は、最近、短歌にはまっています。短歌といっても、近代短歌。きっかけは、若山牧水の歌集です。 「白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ」 「小鳥よりさらに身かろくうつくしく哀しく春の木の間ゆく君」 「さういふこともあ