秋がきたこと、歌集を買ったこと
はじめまして。但馬吟と言います。読みかたは「たじま ぎん」。
私は、あんまり文章が上手ではありませんが、とりあえず、日々自分が思ったことをつらつらと書き残していければと思います。ちなみに、私は都内の大学に通っている大学3年生です。
私は、最近、短歌にはまっています。短歌といっても、近代短歌。きっかけは、若山牧水の歌集です。
「白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ」
「小鳥よりさらに身かろくうつくしく哀しく春の木の間ゆく君」
「さういふこともあらう、さうであらう、何しろ自分は自分で忙しい」
(岩波文庫『若山牧水歌集』より)
とりあえず、私の好きな歌を三つ、並べてみました。歌集を買ったのは、去年の夏ごろでした。観光目的で訪れた宇都宮の、何の気なしに立ちよった書店にて手に取ったのを今も覚えています。
最初の一首を読んだ時、牧水の歌からは孤独の哀しさといっしょに、柔らかい朝陽に照らされたような優しい印象を受けました。何にも馴染めず、浮いたまんまの心に、居場所をくれるような、そんな優しさです。
私は孤独です。昔からそうでした。人との関わり方がわからず、仲良くなろうとしてもどんな話をすればいいのかわからない。そのくせ、寂しいのが怖くて、人の気をひこうとしておどけてみせたり、執拗に絡んだり。そんなことをしているうち、余計なことばかり口を滑らせて、かえって周りから嫌われてしまう始末です。
周りに溶け込めず、浮いてしまった感覚。そんな感覚を持った心だけが残っていて、ただひたすらに宙を彷徨っているような気がしていて。そんな時に牧水の歌と出会って、勝手に心の拠り所をみつけたような気になりました。
牧水にかぎらず、短歌とか詩って、なんだか自分の心のうちを見透かされているような感じがして、どきっとしてしまいます。当たり前な話ですけど、作った人と私は全くもって別人で、違う人生を歩んできたはずなのに。それでもなんだか時代や空間をこえて、その人と繋がったような感じがするのって、なんだか不思議です。
今日は大学の授業も全休で、することもないのでふらふらと歩きまわっていました。私は歩くことが好きで、よく日野市の借家から、府中や八王子、立川などあちこちへ歩いてまわっています。行った先で特別することはないのですが、なんとなく歩くのが楽しい。何かどうしようもないことを考えながら、変わっていく景色を横目に歩いたり、ふらっと寄った書店で面白そうな本があれば買ったりしています。最近は大学やアルバイトの関係で色々と忙しく、あんまり外に出歩くことがなかったのもあったので、久しぶりに本でも買いに行こうと思い、歩くこと2時間かけて国立に行きました。
道中、民家の庭から道路へとはみ出るように生った萩の花を見つけました。秋の花といえば、コスモスやダリア、リンドウや金木犀とか、色々とありますが、萩のあの細長い枝に小さくいくつも咲いたピンクの花は、抜きん出てかわいらしくて、私のお気に入りです。なかなか見飽きないです。
新古今集に収録されている萩の歌で、九条良経が詠んだものにこんなものがあります。
「ふるさとのもとあらの小萩咲きしより 夜な夜な庭の月ぞうつろふ」(巻第四・秋歌上)
古今集にある「宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て」の歌を引用する本歌取りの歌です。「"秋が深まったこと"を"小萩が咲いた頃から月が冴えわたってきた"と遠回しに表現している!これが新古今調です」と、高校時代に古典のおばさん先生に教わってから、なんとなく頭の隅にこの歌があって、毎年秋になって萩の花を見かけると、先生のその時の得意げな顔といっしょに思い出したりしています。あの先生は今元気でしょうか。
国立市は、市の条例もあって景観が整っていて、大学通りなんかは桜並木がずうっと伸びて、その脇にはレトロな感じのアンティークショップや家具屋、洋食店などが軒を連ねているので、ただ歩くだけでも遠い異国にでも来たようで心弾む感じがします。
そうして、葉桜の下、大学通りを抜け、前々から行ってみたかった「ユマニテ書店」という古本屋へ行きました。昭和からある場所で、きれいに舗装された道路とそこを絶えず行き交う車や、ぴかぴかとしたランドセルを背負った小学生たちが走っていく活気づいた街並みの中で、ひっそりと、変わらず昔の面影を残しつづけている所でした。
さっそく私は、店主のおじいさんを横目に本棚をあちらこちら往復しては目ぼしいものがないか探しはじめました。置いてある書籍はどれも国文学や仏教学・神道文化関連の本ばかりで、大学で日本の文化史を勉強している私にとっては楽園のような場所でした。『古今集新古今集必携』という本を手に取ってみました。昭和60年頃の発刊で、歌風や代表歌人について事細かく説明されていました。なかなかいいなぁと思いつつ、家にまだ読み終えていない古今集と新古今集関連の新書があるので、そっと本棚に戻しました。次回来た時にあったら買おうと思います。当たり前なことですが昭和の頃も、こうやって古典の注釈書や解説書が発刊され、当時の、私と同じくらいの年齢の学生さんたちも手に取っていたと思うと、面白くなります。自分もいつか、未来の誰かにとっての"当時の学生さんたち"のひとりになるのかもしれません。
色々と漁っているうちに、土屋文明の歌集を見つけました。岩波文庫の、これまた昭和62年発行のものです。土屋文明は『万葉名歌』や『子規歌集』だったりでよく見かける名前だったので、この間調べたらアララギ派の歌人としても有名だそうでした。前々から読んでみたかったなと思っていましたが、今では絶版でしたので、これを機に買ってみようと思い購入しました。先ほどの店主のおじいさんは外出してしまったようで、奥さんらしき人に会計をしてもらいました。丁寧に包装していただきました。350円でした。
店を出たら、4時頃なのにもうビルの影が長くなっていて、ずいぶんと日が短くなったなあと思いました。ついこの前まで、夕方になっても引かないほどの夏の猛暑に大汗をかきながら、夏が終わることを願っていたのに。3日前くらいから続いた雨が止んだと思えば、もうすっかり肌寒い秋日和になっていて、時間ってあっという間に過ぎてしまうものだなあなんて思って、ちょっとばかし寂しくなりました。
「早く終わって欲しいと思った事も、いざ終わってしまうとなんだか物足りなくなって寂しくなる。」そんな感じのことがよくあります。あんまり面白くないながらも見続けていたシリーズものの映画を見終えた時だったり、接客が嫌で辞めたバイトだったり、大学に進学して回想した高校時代だったり。「もっと楽しんでいればなあ」みたいなタラレバを考えては、なかなか割り切って前に進めなかったりします。きっと、私の人生ってそういったものを繰り返していく気がします。
家に帰ってからは、最近忙しくて放置しっぱなしで荒れてきた部屋を掃除して、さっそく買った土屋文明の歌集を読みました。正直、私の程度では半分くらいしか理解できない歌ばかりでしたが、そんな中でもところどころで仏教的な観念や死の予感を全面的に出した歌があって、結構好きでした。「ゆづる葉の下」の収録歌がとくに好きでした。あと、やっぱり彼自身が万葉集の研究をしていたのもあって、万葉歌人について詠んだ歌も多くありました。
明日は、他にもまだ買ったばかりで読めていない本がいつくもあるので、ゆっくり家で読み進めていきたいと思います。
最後に、土屋文明の歌で、私が良いと感じた歌を二首あげて終えさせていただきます。はじめてのnote投稿で、かなり拙い文章だと思いますが、長々と読んでいただき、ありがとうございました。
『ゆづる葉の下』より
「名所ほろび 実りゆたけき秋の日を用なく来たり 我はさまよふ」
『青南後集』より
「花に寄る心はいつの頃よりか貧にして飢ゑを知らぬ少年」