かがやいているもの
秋です。衣替えをしました。
ひとり暮らしをしていると、日に日に生活に疎くなっていく気がします。私だけかもしれませんが。作り置きがめんどうになってきて、コンビニのカップラーメンや、外食ですませる日が多くなって。最近は食べるのすら気力が湧かなくなって、1日2食だったり、午後3時頃に昼食をしたりと、かなり変則的な食生活になってきました。今は便利なもので、インスタントカレーなんかもコンビニで手に入るので、私のようなだらしのない人の食は偏っていく一方です。怖いですね。
食生活が乱れると、だんだんと他の家事も手が回らなくなってきて、生活という名の生き物がまるで生命活動を止めてしまったみたいに思えてきます。
昨日、部屋掃除をしました。本棚の整頓されず積んだままの本達を立てて並べていく作業は、なんだか楽しい。出版コード順に並べたり、作者名で並べたり、いろいろ試行錯誤してどうにか見栄えよく整えていくうちに、図書館の司書にでもなったかのような心持ちがしました。
今日は、押し入れに埃をかぶっている去年の秋服を引っ張り出しては、洗濯していきました。私の生活はこうして少しずつ、また息を吹き返して回り始めていくのかもしれないと思いました。
秋になると、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』を高校時代に読んだことを思い出します。高校3年生のときに、受験期にもかかわらず私は近代文学にはまりました。学校の帰りに、田舎の駅前の小さな本屋に立ち寄っては、芥川龍之介や田山花袋、武者小路実篤なんかの本を買って、帰り道にそれを読み歩いていました。受験勉強そっちのけでした。きっと、勉強というストレスから逃避したくてそんなことをしていたんだと思います。
そんなある日に、たまたま買って読んだ『海底二万里』が、とんでもなく面白くて、上巻を買ってその日に読み終えてしまったことを覚えています。私はあんまり本を読むスピードが早くなくて、一冊の本でも読み終えるのが一週間かかったりするのに。どうしてか、その本はページを捲る手が止まらずに読み終えてしまいました。
翌日、秋の学校帰りのいつものあぜ道を歩きながら、購入した下巻を読み進めていました。辺鄙な田んぼ道の中で、私の頭の中で主人公たちを乗せたノーチラス号の大冒険が繰り広げられていました。そうして、2日であっという間に読み終えてしまった『海底二万里』ですが、正直に言うと、今はその内容のほとんどを忘れてしまっています。断片的には、主人公の教授たちが、上陸した島でパンの木の実を食べていて、どんな味がするのか気になったことや、日本では主人公の助手が大道芸をやったりとはちゃめちゃな行動をとっては、案外それが教授の手助けになっていた、みたいなことは覚えているのですが、それ以外の部分は、やっぱり思い出せません。
それでも、思い出せないながら、あの本を読んだ感動や、そんな心で帰った秋の日の景色は、私のなかで小さな思い出としてあります。
ぼやけたもののなかに一点、かがやき続けているものってあると思います。
ありふれた表現ばかりの曲の歌詞でさりげなくあった一言がずっと頭の中にあったり、前後のことは全く覚えていないのに、一瞬だけ写真のように切り取られた記憶の中の景色だったり、何一つよさがわからない美術品の中で同じく何がいいのかもわからないのに、すごく感動した作品を見つけた時だったり、そういったものを見つけるたび、私はいても立ってもいられない喜びを感じます。
ありふれて取り留めのないものの中で、ほんの一瞬、自分と繋がったことから脳裏の心象風景に刻まれるもの。そういう憧憬を見ながら、私は日々生きています。
金木犀がそろそろ咲きそうです。まだ蕾なのに、辺りを通るだけでいい香りが漂ってきます。金木犀は明治時代に本格的に日本に輸入されたそうで、その香りもさることながら邪気除けの縁起物としても神社に植えられ重宝されたそうです。柊といい、ナンテンといい、日本人の宗教文化に深く根付いた草木というのは調べるだけでも面白いと思います。静岡県の三嶋大社では樹齢1000年以上(ということは、明治以前からも日本にあった?それとも明治以降の挿木?)の金木犀があるそうで、いつか見に行きたいです。
最後に、最近気にいっている北原白秋の歌を二つ、あげて終わらせていただきます。今回も読んでいただき、ありがとうございました。
『風隠集』より
「乏しくも今は足りつつ茶の花のにほふ隣を楽しみにけり」
『橡』より
「秋ゆふべ たぎつ瀬の音のこもり音のきけばきこゆるこの日和かも」