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研究生という名の「フリーター」で過ごした一年を振り返る⑤
出願準備をする(11~12月)
いったん論文作業を止めて、博士後期課程の出願準備を始めた。今の国立大の研究室が居心地が良いし,ここにしようと決めた。正直,色んな選択肢があったと思う。元の研究室に戻るか,高校時代に恋焦がれた大学で社会学が有名な東大や一橋にするか,面白い社会学の先生が多い立教や法政にするか,西日本で社会学が強い大学(京大,大阪公立大,立命館,同志社など)にするか…
昔の自分だったら,迷わず東大か一橋を選んでいたと思う。でも,大学や修士課程の時に「社会的に良いとされている環境が自分に合っているとは限らない」ことをすごく感じていたし,何人かの先生から「○○さんには向いていないよ」という助言をいただいたこともあり,研究生をしている大学院に進学することを目標にした。
自分は修士論文の出来が良くなかった分,研究計画書などの他に提出する書類をクオリティ高く仕上げないといけなかった。そのため,多くの人は研究計画書にここまで時間はかけないだろう..というくらい、時間を割いた。自分の研究が社会学のディシプリンのどこに位置づくのか,独自性はどこにあるのかを端的にまとめ上げようとした。
正直,しんどかった。博士後期課程の試験が不合格で,「失敗作」の烙印を押された修士論文との関連で計画書を書かないといけなかったから。そんなしんどい中で,計画書を書く上で「修士論文で本当は言いたかったことは何か」をひたすら考えていた。体調不良で研究指導もおぼつかないまま限界突破してしまった修論。でも,研究生をしている研究室の先生からは悪くない評価をいただいていた。修論では舌足らずになってしまったけど,「本当はこういうことを明らかにしたかったし,大事にしたかったんじゃない?」ということが,9~10月に論文を執筆していた時に見えていた部分もあった。それをしっかり言葉にして,研究計画書を書き上げた。
何度も何度も先生に見てもらい,何度も何度も先輩と議論を重ねた。
出願の上で,修士論文の原本を複数冊印刷する必要があった。学部~修士課程の大学・大学院では,卒業論文や修士論文の提出はオンラインだったので,新鮮だった。かつて,泣きながら破った117ページの修論を印刷し,製本した。すごく分厚かった。この頑張りが認められなかったのはしんどかったけど,頑張ったのは確かだったし,なんとか研究を続けようとできている。そんな思いに気づけた作業だった。
同時期に乃木坂46が出していた『歩道橋』の歌詞にすごく救われていた。歩道橋を渡ろうとする直前の葛藤と、この時期の自分の葛藤が重なっていた。
いつもよりも落ち着いた正月を過ごす(年末年始)
無事に出願を終え,年末年始を過ごした。インフルエンザやコロナにもかからず,読みたかった本や映画を観た。中学生の頃から年末年始は「誰にも邪魔をされずに頑張る時期」としてひたすら勉強したり,卒論や修論を書いたり,タスクをしたりしていたので,小学生の時以来にゆっくり年末年始を過ごした。社会人になった高校の同級生と飲んだり,初詣に行ったり,年末年始らしいことも行うことができた。
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面接練習をしつつ,共同研究の調査をする(1月)
1月は,ゼミや先輩との研究相談の時間で面接練習を行った。自分の研究を端的に伝えられるように,概念の説明や先行研究との関係を説明できるように,散歩しながら練習したこともあった。とにかく不安だった。今回がダメだったらさすがにもう一年はしんどいので,潔く第二新卒枠が使えたら就職しよう,それが無理だったらフリーランスとして地元のまちづくり関係の仕事をしようと思っていた。だから,必死だった。
1月は学会の共同研究の調査で毎週のようにインタビューを行っていた。自分は一番年下で経験も浅いのであまりできることはなかったかもしれないけど,アポ取りやインタビュー記録の整理など,できることは率先して行った。人の話を聞くことが自分は好きだし,そのお話と社会とのつながりを見ていくことがとても楽しいと思えるんだなあと気づけた時間だった。
あわただしく、緊張をしつつ、試験日が近づいていった。