暮らしを中心に据えて生活すること
今年度は比較的余裕がある年度になりそうだから、暮らすことを大切にしたいと、4月1日に思った。
暮らしを大切にするって、おそらく自分にとっての指標は多くの人の「普通」なんだと思う。
弁当を作る、水筒を持っていく、徒歩で移動する、家事を行う、片付ける、珈琲を淹れる、日記をつ
る、身体を動かす..など。
そんな生活は、中学の時に進学校を目指して勉強していた時からずっとなかった。10年以上。というか、暮らしを大切にすることをしたことがなかった。
中高は、みじたくや自分の持ち物に関すること、スケジュール以外は基本母頼みにしてしまっていた。弁当も、布団も、片付けも。というか、そもそも家にいないで塾や学校にいたから、暮らしに目を向けることは家庭科の授業で良い点を取ることを考える時だけだった。
余計に、東京のど真ん中にある大学・大学院に進学して、「大都市で生きる」ことがネイティブな子達に囲まれて生活すると、なおさら。
自炊することも、家事を十分にすることも、自分の身体を労わって落ち着くことも、できなかった。そういうサービスを「お金」を通して交換して獲得しちゃえば楽だったから。都市の速くて/早くて多い情報量と人とのつながりを担保しながら自分の能力を上げていき、市場価値を高めていくことをしていたら、暮らしを大切にすることなんてできなかった。
かろうじて留学中に暮らしを大切にできたけど、日本に戻ったあとは大事にできなかった。
体調を崩して、何もできなくなった時、かろうじてコンビニに行ってご飯を買っても、生きた心地がしなかった。
でも、少し落ち着いて実家で料理をした時、珈琲を家族に淹れた時、なんか生きた心地がした。
「自分の手で何かする」ことの重さと、良さを感じた。
なんとか日常生活を送ることはできているけど、今年度は学生としても社会人としても非正規という枠組みで生きざるをえなくなっている。敢えてそうしないと色々きつかった事情があった。今でも悔しいし、悲しいし、同年代に置いていかれることがしんどくなっている。
恋愛も結婚も安定した収入も、自分にとっては遠い遠いもの。(そもそもそれらが私にとって「幸せの最適解」かはわからない)
自分に向き合うことは、なんだかんだ進路選択を通してずーーーっと、たぶん周りの多くの人よりも真剣になっていたと思う。
でも、それは表面的なもので、本質的な「生きる」を考えずに生きてしまっていた気がする。
それは、社会が発展した結果でもあるのかもだけど、「生きる」に直結した「暮らすこと」がないがしろにされてしまっては、人間は疎外された存在ということになる。
ていねいな暮らし、という言葉があって、何でも手作りとかゆっくりしてるとかイメージがあるけれど、本当はグラデーションがあって、「自分の手で生活する」ことが根底にあるのだとおもう。ていねいな暮らしに私の生活が入るかわからないけれども。
今年度は「暮らす」を大切にしたい。
以下は暮らす上でヒントになっているもの
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