「この子はちゃんとした大人になれるのか」
2学期が始まって1ヶ月。いろいろなところで「子どもが学校を休みがちになっている」「行かなくなって数週間が経つ」などの声を聞きます。
子どもたちの気持ちもそうですが、そんなお子さんを見守っている親御さんの気持ちを思うと、私の古傷が疼き、鼻の奥のほうがツーンとしてきます。
長い期間にわたって“不登校の親”を経験してきたけれど、どれだけ長い時間が経っても、どれだけ子ども3人分の経験をしてきても、なかなか反応はなくなりません。
子どもたちの足が学校に向かなくなったとき。私の中には、
生きててくれればいい、ここに存在してくれているだけでいい
という気持ちと
なかなか心からそうは思えなくて
この子はどうなってしまうんだろう、将来苦労するんじゃないだろうか
という気持ちがいつも混在していたと思います。
勉強のこと
友人関係のこと
進路のこと
これからの人生のこと
子どもが周りからどう思われるのか
親としてどう思われるのか
不登校の子どもを持つ親の悩みは挙げたらキリがないけれど、私が3人の子どもたちの不登校経験をしてきて思うのは、結局それらの悩みの大半は
この子がちゃんと大人になれるのか
というところから派生していると思っています。
今、どれだけ学校に行けてなくても、気持ちが落ちていても、健康状態がすぐれなくても。もしわが子がちゃんと大人になれることが確約されているのであれば、今がどうであっても大丈夫な気がしてくる。
でも残念ながら「ちゃんと大人になれるか」は誰にもわからないんですよね。そもそも「ちゃんと」という言葉自体がとても曖昧。
私って、ちゃんとした大人?
そう自問したとして、少なくとも私は年齢的にはYESだけど、そのほかの点で迷わずYESと言える気がしない。「ちゃんとした大人」という存在しないものを追いかけるのって不毛だよなとも思うわけです。
わが子たちを見ていると、それなりに大人になっていて、それぞれに自分で選択した道を歩いていると思います。世の中の「ちゃんと」に当てはまっているかはわからないけど、自分の幸せのために、周りの人の幸せのために生きているように私の目には映る。
子どもの不登校で悩む親御さんが知りたいのは、「不登校の子のその後」かもしれません。私も知りたかったなー。
そんな進路もあるんだ?
そんな選択もあるんだ?
そんな人生のつくりかたもあるんだ?
先を行く人たちのエピソードに触れることでホッとするのです。目の前のわが子はしんどそうに見えるけれど、実は可能性に満ちているんじゃないかと思えてくる。
先のことはわからないし、何の根拠もないけれど、ただただ「この子は大丈夫だ」という気持ちを持てるようになったとき、次の扉がひらく気がしています。