青森県の最北端に伝わる「かなしめ」、北上する熊野信仰
名取の熊野神社に「金注連」が伝わっています。
金注連とは、名取老女が巫女である証拠のひとつとも伝わり、
名取老女が身につけていたと伝わるもの。
僧侶のかける輪袈裟、修験者の用いる結袈裟を製鉄にしたのが、
金注連と考えられています。
その金注連と関連する話が、遠い下北半島に位置する青森県に伝わっていました。
先日、川内八幡宮の宮司、石倉様より情報を頂き、
東北の熊野信仰を知る上で貴重なお話だと思いました。
金七五三神社も兼務しておられ、地元熊野修験の目名不動院文書に、
「金注連を自在に操る巫女が出て
川内八幡宮の起源が語られる記事になっている」との事。
「七五三」を「かなしめ」と読むのです。
金〆さんという姓もあり、「かなしめ」は平仮名だそうです。
※川内八幡神社のサイト
津軽の修験とは
東北地方に多い天台宗。
神仏習合である熊野信仰から天台宗の働きがあったと想像すること。
『弘前市史』(中世の津軽の修験道と神社)によれば、
古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、
その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代に至り、幕府の反天台宗の宗教政策を受けて、
「禅密主義」(臨済禅と真言密教の総体)の洗礼を蒙ることで、徐々に脱天台を図り、ついには室町時代の「本山派-当山派」という、広義の真言密教圏に収斂されていった、と。
青森県は、南部領に本山派が多く、津軽領に当山派が多い。
つまり、天台宗から真言宗に吸収されていったことであり、青森にいた安藤氏が、羽黒・熊野修験の旦那場であったとも言われる。
「1281年、安藤氏が牡鹿の「先達職」を預ったことになる」とあり、
政治と宗教を確立し、その背景に修験が深く関わっていました。
(羽黒と熊野修験)
牡鹿半島というと「唐桑阿部氏」を思う。
※牡鹿半島に位置する唐桑半島。(鯨信仰がある)
唐桑半島にある「御崎神社」の由縁に、阿部氏の名があり「唐桑阿部氏」と名乗っていた様子。
阿部休信(唐桑城主久信か)とあるが詳細は不明。
画像は、いずれも『古里零れ話 唐桑史談』加藤宣夫著より
唐桑半島の領有権をめぐる金氏と安部氏の攻防があったといわれ、
唐桑半島は金氏の支配する最南端の領地でした。
「海産物と砂金の関係」がある地なのです。
安藤氏(安東)の水軍と阿部氏、熊野水軍との関わりが、あれば興味深い歴史です。
北海道まで交易していた壷
青森県の最北にあれば、北海道にも熊野信仰の痕跡があったと考えられます。
北海道苫小牧市に隣接する厚真町で発見された一点の「壷」が、1959年、地元の郷土史研究家によって採取されました。
2011年になって12世紀頃の常滑焼であることが判明したのです。
北海道出土の中世陶磁器では最も古く、
しかも経典を埋めるさいの容器として使われたとの見方が示された。
北海道はその時代には「日本」ではなく、仏教のブの字もなかったと見られており、誰もその壷が見つかるとは予想していなかったという。
※壷に経典を入れるのは、末法思想の奥州藤原氏の特徴。
これまで北海道で見つかるはずがないと思われていた
常滑焼の壺がなぜ厚真で見つかったのか?
おそらくこれは奥州藤原氏が隆盛をきわめた時代に、平泉から持ち込まれた壺だと考えられているのです。
であれば、どの海路で熊野信者は北上し続けたのか?
江戸時代頃
・北前船(江戸時代)~下北半島へ日本海ルート
・西廻海軍→日本海沿岸を西廻りに、酒田から佐渡小木・能登福浦・下関
などを経て大阪に至り、さらに紀伊半島を迂回して江戸に至る航路による海上輸送。
北前船は、古くから都と日本海を繋いでいました。
現在でも、秋田県角舘は小京都とよばれています。
雛人形が、山形県酒田や秋田などにもたらされたのは、単に交易目的だけではなく、伝統も京都と繋いでいた船でした。
秋田県角館の田口家より。
「北前船」は、宮城県村田町から日本海を経由し、京都へ「紅花」を輸送しています。
熊野信仰には、海の歴史があることを改めて実感します。
船で数々の文化を運んできた歴史が東北にも、もたらされ、新たな文化を開花させてきました。
そこには、水軍という海民の力があったこと、また船上していたであろう巫女の祈りや祈祷も共に最北の日本列島に伝わっていたことは、
歴史のひとつとして記録すべき事と思います。