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漫画の描き方同人誌を書いた人間の漫画の描き方本レビュー(KADOKAWA刊「マンガの原理」の感想)
昨年末に漫画の描き方同人誌を出した。
ちょうどこの本を出しまっせ〜って告知を出したのと同じ頃にある商業本の書影が出て話題になっていた。
森薫先生&入江亜季先生&ハルタ初代編集長の大場氏による、マンガの技術解説本が来年の2月に発売らしい。
— みやも(大阪府) (@miyamo_7) December 7, 2024
目次をざっと見るに、基本的・実践的な項目をあらかた網羅した感。
Amazon : 『マンガの原理』 KADOKAWA – 2025/2/4https://t.co/iHTTcJLKuZ
KADOKAWAの商品ページhttps://t.co/LP0bIUlSiW pic.twitter.com/zl7UTMbCNc
すんごい本、来ちゃったな…やばいな…。
お、俺の立つ瀬ないやんけ!!!!!!!!
こんな立派な…大手の出版社から…大作家先生の立派な漫画の描き方の本が出たら…木っ端のクソ雑魚ナメクジ同人作家がオタクに本出してほしすぎてトチ狂って出した俺の同人誌…意味あるゥ!!??…と思って今日のこの日まで震えていた。
そして今日。
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届いた!!思ったより判型でけえな…?
そして読んだ…!!
結論から言うと私が漫画の描き方同人誌を出した意味はめちゃくちゃあった。
なんでかって言うと「マンガの原理」は「ものすごい技術の本」であり、「べからず集」だから。
おそらくだけれど、この本の想定読者って帯にも書いてあるとおり「職業漫画家」、もしくはそれを目指している人、あと読者であってもライトな読み手でなく作家の方法論などに興味のあるディープな読者。そして「こうした方が良い」と同じくらい「やりがちだがこれはよくない」という「べからず」がたくさん載っている。
この本に書いてあることを理解して実践出来る人ってそもそもそれなりに漫画描ける人でそこからもうワンステップ高みに上がりたい人な気がする。プロとしてこうあるべき…ここで手を抜くべきではない…隅々まで考えを巡らせて作品を作るべき…みたいな執念をめちゃくちゃ感じるロジックの本だった。すげー本だぜ。
……。
フー、命拾いしたぜ!!
マジで告知時期がかぶって「こんなすごい本が本屋で買えるならワイが漫画の描き方の同人誌出す意味あるかな〜?」みたいな事考えてたけどちゃんと意味あった!私は初めての人向けのひのきの棒的なものを配りたかったので。ドラクエあんまわからんので例えが適切でなかったらごめん、わからんのに例えに使うな、それはそう。でも「マンガの原理」、強い本すぎる、こんなん終盤でボス倒しに行く時の武器ですわ。
「漫画」の技法書づくりの難しさ
これやっぱ漫画の技法書の難しいところだな…と思うところで、「絵の話」「ストーリーの話」「演出の話」を1冊でしなくてはいけないので、どうしても「絵の技法書」「ストーリーの技法書」「演出の技法書」を1冊ずつ読むほうがちゃんとした知識得られるな…ってなってしまう。
自分の漫画の描き方同人誌でも絵についてはばっさりカット、元になった記事では「絵の描き方はディープブリザード先生あたりの動画見ればええから!」みたいなこと書いた気がします。雑すぎるだろ。
「マンガの原理」はその点、文字本にしてはクソデカいB5判型に文庫本並みに細かい文字でビッシリ!!!というパワープレイでめちゃくちゃ頑張ってる部類ではあるんですが、これは漫画が総合芸術である以上仕方ないことだなと思います。
ただ「マンガの原理」は、そういった1冊では手薄になりがちな部分に注釈や巻末で参考文献をたくさん載せてくれているところが本当に素晴らしい!!これがあるとないとでは本の価値が倍くらい違うと言ってもいい。注釈や巻末で参考文献を載せるのは自分の漫画の描き方同人誌でもやったことなので、なんだか自分のやり方を肯定されたようで嬉しい気持ちになりました。いやほんと、漫画ってマジやること多すぎるンゴね…。
あとこの本はハルタ(旧Fellows)や青騎士という雑誌・森先生・入江先生のファンブックとしてすごく質が高いな〜と思いました。自分は寡聞にしてあまり両先生の本読んでないのですが、好きな作家の創作論このレベルでびっしり書いてる本、もし自分の好きな作家で出されたら気が狂う。
ファンブック性の高さで、大場さん・森先生・入江先生の方法論が自分が好きな作家のやり方や自分が目指している所とコンフリクトしてる時に「あくまでこの雑誌・この先生たちのやり方だから…まあええか!!」って割り切りができるのもいいなと思いました。美術・芸術の分野の方法論って割とこれが正解だ!!って出されたことを釈然としないまま実践してやっぱ違うな…ってなることも多いので「聞かなくていい理由」があるのは気が楽かもしれない。もちろんこの先生たちのようなベクトルを目指している人には即効性があってうれしいし。
個人的にツッコみたいところ
「マンガの原理」、プロの技術の本として本当に素晴らしい本だと思う。ただ1個、ツッコませてほしい。
P56「キャラの立ち位置の原則」のここ。
大場 映像作品のお約束として、主人公は画面左側から出てきて、対立する相手は右側から出てくる、というのがあります。これ、もともとは舞台演劇に同様のルールがあって、それを踏襲していることになります。
ぎゃ、逆じゃないですか…???
私は映像系の仕事をたまにするのですが、これは逆な気がするな…俺が間違ってんのかな…。ウルトラマンもガンダムも上様も立ち回りで位置が変わることはあってもホームポジションは上手(右)だと思うんだけどな!?
それにそれもただ単に「主人公だから」ではなく物語上のパワーバランスでの攻勢で押している方が上手からくる…といった描写であって必ずしもこの限りではありません。
自分の本でも上手・下手については軽く触れたのですが、こういう記事とかが割と詳しいと思います。
洋書の翻訳本の引用でお話されてたからかも…?って思ったんですが、西洋でもディーンの法則というのがあってこれになぞらえて演出すると洋の東西を問わずあまり上手・下手(右・左)の意図が変わることはない…と思います。ウワ〜〜〜こんな立派な本に堂々と一般論と真逆の事を書かれてると自分の知識に自信ないなる〜〜〜〜。
この章、富野由悠季監督の「映像の原則」からも引用されてるんだけど、その富野監督の本でもセオリーに添えば強者上手・弱者下手といった感じになると思います。私はこの富野監督の「映像の原則」をたまたま先週読んで「仕事の現場で習ったこと"全部"書いてあるじゃん!!!」ってめちゃくちゃ感銘を受けたので…ジークアクス見てファースト見返して富野監督の本を読むチョロいオタクですまん。
「映像の原則」ではこのあたりの映像の上手・下手の法則性についてこのように記述されています。
心臓の位置
前項までに記した映像における左右の一般的印象は、我々の心臓が左側にあることから決まっているのです。これがこのテキストでの最大重要要件です。
舞台の上手(観客から見て右側)、下手(観客から見て左側)。
これは経験的に決められたことなのですが、そうなった原因もわれわれの心臓が左にあるからで、左から来るものに対して心臓をかばおうとします。防御の姿勢をとります。
ぎゃくに、右から来るものに対しては寛大です。右利きなら受けやすいということも原因しているでしょう。
背中から刺激を受けるのと正面から刺激を受けるのとでは、どちらがダメージが大きいかと考えても良いでしょう。
もちろん例外もありますが、陸上競技のトラックで走る競技は左回りです。それは心臓のほうに加重をかけるほうが楽だからです。右回りでは、心臓は遠心力の問題もあって、外側に引っ張られるような感覚を嫌がってしまうからでしょう。
それは視覚印象にもつながっていて、左からの刺激には右からのものより“脅かされる” “より緊張して防御しょう”とする意識がはたらくのです。
“ヤバイ”“まずい”“怖い”という感情を誘発する刺激になります。“悲しい”“苦しい” というマイナス感情も誘発されます。
右より見えてくる視覚印象は、心臓より遠いために、プラス指向を喚起するというとオーバーなのですが、観客は寛容にその存在を認めることができるのです。
当たり前にその存在を容認できるものは、右側に見えるものなのです。
ですから、観客であるかぎり、右にあるもの、右から現れるものについては“そうだよね”と受けいれられるのです。その受容できる視覚感覚が、観客にとっては上位感になって“大きなもの”“強いもの”というようなものは、右側から登場させるようになったのです。
ですから、舞台では右側を上手にしたのです。とすれば、左側を下手にして、 演劇的な手法を伝承してきたということになります。
これを演劇的に応用すると“当たり前に来るもの”“舞い降りるもの”“大きなもの” という意味性を持たせるためには“上手から登場させればいい”ということになります。
そのぎゃくが下手で、“弱者”“虐げられている者”は下手におきます。 が、上昇指向があるものを表現しようとすれば、下手から上手に移動させるだけで、最低限度の意味を視覚的に表現できるわけです。
上手から下手に移動するものは、それだけで“流れくだるもの”“大きなものがおりてくる”と感じられますから、右から左に移動するものは時間的にも短く感じられます。
このことから、つまらないシナリオなら、ずっと右から左に移動する動きで構成すれば、少しは観客をだませるという冗談もでてくるのです。
右のほうが上位にあるという視覚印象の大原則があるために、われわれは、右にあるものは、滑らかに動くと感じられ、それは川の流れのように“なんとはなしに下に行く”と感じてしまうのです。
心臓という左にある最も大切な臓器を守りたいという本能があるために、人間は本能的に、左にあるものを守ろうとします。ですから、左から右に移動して見えるものに対しては、あえて動こうとするものだから、上昇しようとしている指向性があると感じてしまうのです。
ぎゃくにいえば、反対の右側から移動するものには、自然な動き、受け入れやすい動きとして捕える癖がありますから、見る者は寛容に受け入れてしまうのです。
そのようなことから、演劇界の先人たちは、右手の位置を上位=上手、左側を下手としたのです。演劇と映像は見て楽しむものですから、視覚印象の力学は同じように作用します。
また、この本の上手下手の原理原則についてガンダムを引用しながらわかりやすく紹介してくれている動画がありました。
というか「マンガの原理」でもこのあたりの文面が引用されてるのに先述の記述が出てきたのでエッ!!?となってしまった。
「映像の原則」が「マンガの原理」で引用されていたのはこの辺ですが、
フレームの右から入ってきた人物が強い人物で、左から出てきた人物は弱い人。 けれど、左から入った人物は、いつかはガンバル人かもしれない。
正義の味方は左から入ってきて、右からきた悪漢をやっつけて、勝ったときに左に向いて右手に立ち、本当に強い人になる。
これ、立場の強さを立ち位置の変化で表す一例(逆境に打ち勝った様子を映像で表現するとこう)ってだけで別に主人公が必ずしも左から来るって話はしてないと思うんだけどな?????
富野監督も「つまらないシナリオなら、ずっと右から左に移動する動きで構成すれば、少しは観客をだませるという冗談もでてくるのです。」と書いてるし、映像表現でも右から左の画面の流れは割と鉄板なので「漫画は右から左にめくるものだから映像の原理原則が使えない…!!」なんてことはないと思う…。ウーン、芸術の分野は流派みたいなものもあるので、一般的な上手・下手の考えとは逆にそういう風に書かれてる文献があって自分の知ってる知識と流派が違うだけかも??みたいにも思うので一概に間違いとも言えないのも難しいところだ。
【追記・2025/02/06】
「マンガの原理」の本文中でも引用されているハリウッド流の法則性が書いてある本をコメント欄で教えてもらいました。
良い人は「左」悪い人は「右」からやってくる
— フィルムアート社 (@filmartsha) July 16, 2024
二人を乗せた電車が「右」へと曲がる、つまり主人公が本来行くべきコースを外れて、悪の世界に向かいはじめたことを示している
このあと主人公は適役の「交換殺人」の提案に乗ってしまうことに…
ヒッチコック『見知らぬ乗客』https://t.co/Qj0Z9XyZDk https://t.co/nZlupV4kEc pic.twitter.com/tnmKZCAMEX
なるほどなあ、やっぱり違う流派があるんやなあ。
ただ、この本と富野監督の本両方引用して「映像業界はすべてこう」みたいな書き方はどうなんだ!?という気持ちは映像制作の現場で仕事している人間としては依然として拭えずと言ったところです。
この本のツイートの引用欄でも複数異議が唱えられていますが、国内作品だとやっぱ上手・下手原則のほうが強いかなあといった印象です。
これに関しては異論ありで、熊井啓監督は「右から左へ歩かせるとその人の未来や前進性が出る」と発言
— kawata (@MugenShinsi) July 17, 2024
また、今はわかりませんが東映ヒーロー物での特撮シーンはヒーロー側は右から左、悪役側は左から右に動くように撮影したとメインスタッフから直接お伺いした事があります
要はスタッフの個性かと https://t.co/yPw67nrO54 pic.twitter.com/N28zL6YN2h
でも右は「right」だし、「アダムの創造」でも神は右側にいる。だからこれは「どこから来たかよりも、どこに行くのかが重要だ」ということを示してる。実際主人公はこのあと持ちかけられる交換殺人を断る。それは彼が(つまり電車が)「right」へと進んでいくから。 https://t.co/AhdNjqMuqr
— 抱擁 (@bougunquet) July 17, 2024
こちらの2個目のツイートの方の言われている通り、「物語上どこへ行くのか」が右から左に演出する時も左から右に演出する時も大事で、主人公がどちらからで敵がどちらから…というよりはやはり描写上のパワーバランスでの表現かなあと思います。
後学のためにこの本も買って見ようと思います。
「マンガの原理」ほんとにすごい本なんですけど、ここだけ引っかかっちゃって宇宙猫顔になっています。上手・下手の話題は映像表現では割と当たり前の知識なのですが、漫画の技法としてはほぼ触れられることがなく、昔Twitterで太田垣康男先生がちょびっと他の方へのリプライで言及されていたのくらいしか見たことがなく(これまとめ主がゆうきまさみ先生なのもすごい)、自分の漫画の描き方同人誌で結構こだわりがあって入れた所だったのでムムッとなりツッコミを入れておきます。私のような木っ端の雑魚作家がツッコミ入れて本当に恐縮なのですが…。
ウワー「マンガの原理」のレビューじゃなくて「映像の原則」のレビューみたいになってしまった、ごめんて。
おわりに
私の漫画の描き方同人誌は初心者の同人作家向けで、「とりあえず初めての1冊を仕組みはこっちでなんとかするので、萌えのことだけ考えて出来るだけ苦労しないで出してほしい」って気持ちで書いた。なのでできるだけ「べからず」を言わないように書いているし、「ここは手を抜こう!」みたいなことを平気で言う。漫画に本当に真剣でプロとして手を抜かずに読者に最高のものを届けようという「マンガの原理」とはあまりに真逆のスタンスすぎる。でもそれで良かったと思う。
私はSF作家の山本弘先生の「創作講座 料理を作るように小説を書こう」という本が好きで技法書の話になるとよく話題に上げるのですが、この本にはこう書かれている。
Q.〈小説を書くのって難しいんでしょうか?〉
いいえ、小説は誰だって書けます。でも、作家になるのは難しいんです。
たとえば、料理は誰でも作れます。粉末スープをお湯に溶かすのも、炊飯器で米を炊くのも、温かいご飯に生卵をかけて卵かけご飯にするのも、いちおうは「料理」です。しかし、食べてみて「美味しい」と思える料理、お店でお客様にお出ししてお金を取れる料理を作るには、修業が必要です。
それと同じです。小説を書くことは簡単ですが、その小説が面白いかどうかは別問題です。面白い小説を書くためには練習が必要です。まして、プロとしてデビューし、食べていこうとしたら大変です。運良くデビューできても、人気作家になれるのは、ほんのひと握りの幸運な人たちだけです。
「小説を書くこと」「面白い小説を書くこと」「作家になること」「売れる作家になること」――この四つを混同してはいけません。それらの間にはものすごく大きなギャップがあるということを、まず理解してください。
ひと口に料理と言っても、大別して三種類あります。
料理①:自分で作って自分で食べる料理。
料理②:家族や恋人、友人など、親しい人のために作る料理。
料理③:お店でお客様にお出しする料理。
この三種類の料理がまったく別物であることは分かりますよね?
いちばん高いハードルを要求されるのは、もちろん料理③です。お金をいただく以上、お客様を満足させなくてはいけませんから、常に一定以上の水準を保つ必要があります。単に美味しいだけではだめで、見映えまで考慮して盛りつけなくてはいけません。ライバル店と差をつけるためには、他のお店にないような特色も工夫しなくてはならないでしょう。時には料理評論家のきびしい批評にさらされることもあるでしょう。
料理②には、そこまできびしい縛りはありません。ちょっとぐらい失敗しても、(よほどひどい味でないかぎり)あなたの家族や恋人は許してくれるはずです。それでもあなたは、好きな人に喜んでもらおうと、腕をふるって美味しい料理を作ろうとするはずです。
そして料理①。自分一人のために家で作る料理ですね。これがいちばん気楽です。盛りつけなんか気にしなくていい。残り物をぶちこんで、適当に作ればいい。たとえ失敗して不味い料理ができても、誰も文句は言いません。だから思いきり自由に作れます。
山本先生の例えを借りると、私の漫画の描き方同人誌の目指すところは自分で食べる「料理①」か、身内に喜んでもらおうと思って作る「料理②」だ。
一方で「マンガの原理」の内容が目指すところはゴリッゴリの「料理③」だ。しかも三ッ星とかついてるレストランの「料理③」だ。ちょうど「マンガの原理」のコラムでも同じような料理での例えがされていた。
そして「マンガの原理」ほどのハイレベルな物が出てくることは少ないとはいえ、世の中に出てくる漫画の技法書って大体「料理③」を想定している。
私はタローマンから岡本太郎にものすごくハマってしまって、作品ももちろん好きなのですが「芸術は一部の金持ちやマニアのものではない。民衆のもの、大衆のもの、社会のものだ」「すべての人が(絵を)描かなければならない」といった思想にすごく感銘を受けて、下手でも初めてでもみんなに漫画を描いてほしいなという気持ちがある。
この話も割と良くするんだが、自分は一度商業での連載を失敗して3年ほど断筆している。でも少し元気になってきて商業だけが全てかな?と思って同人誌を描いてみたのがきっかけでまた漫画を描けるようになった。この時に描いた同人誌は完全に料理①だと思う。
せっかく同人という文化が発展してる国なので、料理①や②、「趣味で漫画を描く人のための本」があってもいいよなと思って作ったのが自分の漫画の描き方同人誌だ。
なのでこんな立派な本とタイミングが被ってしまったけれど、自分の本も無駄ではなかったなと思っている。シェフや板前さんが手間ひまかけて作ってくれて立派なお店で出す料理のレシピと、限られた時間や環境で家族や友達に喜んでもらうためのレシピって違うから。こういう両方の本が世に出ているのは豊かなことだなと思う。自分で言うな。
そして所々でも書いているように、一定のセオリーはあってもどうしても自分に合わない方法っていうのはある。漫画なんて雑誌ごとで雰囲気もぜんぜん違うし、少年漫画ではよく見るけど少女漫画じゃ見ない技法とか、逆もある。一発でジャストフィットする本なんてめったにないので色んな本読んで必要なところつまみ食いするのがいいんじゃないかなと思う。「マンガの原理」はそのうちの1冊にするには間違いなくとてもいい一流の技術の詰まった可食部の大変多い本だと思いました。
ただ、この本はすごくいい本なのですが、指向性がすげーやっぱ「ハルタに載ってそうな漫画」に偏ってるなと思うところは否めず、なんというかマジで「三ッ星レストラン」の料理のレシピなんだよな。
ハルタに載ってるような漫画の傾向って結構贅沢でカロリー高いから、この本って良書ではあるんですが言ってることがスゲー真剣すぎて重たいし厳しいので、これが「すべての正解」とされて、みんながみんなハルタに載ってそうなリッチすぎる漫画になったらそれはそれで重いな…と思う。料理の例えで言えば、お金を取るお店の料理もすべてが三ッ星レストランになるのが良い事じゃなくて、定食屋や屋台の料理や立ち食いそば屋なんかのいろんな選択肢があることのほうが自分は豊かな世界だなと思うので、この本のごもっともすぎる数十種類の香味野菜を何時間煮込んで丁寧にブイヨンを取ります…みたいな意見をガン無視してほんだしとか味の素使ったけどこの味このジャンクさがたまんね〜!!!みたいな漫画でやっていくのも全然ひとつの道だと思います。
そして一度ガン無視しても三ッ星レストランの技術が街のラーメン屋で応用できることもあるかもしれないので正か非かでスパッと切ってしまうんじゃなくてまあ今は使わんけどどっか心の引き出しにしまっとく…でもいいと思う。知識って同人誌の在庫と違って物質じゃないからなんぼあってもいいですからね。
ずっと料理の例えをしていて恐縮なのですが、食べてくれる人の顔を想像することってとても大事だなと思っていて、作る側が三ッ星レストランのフレンチが最高の料理なんだ!!って思っていてもお客さんがぶあちいチャーシューのったラーメン食べたいなぁ〆でスープにご飯ぶち込んじゃったりしてね…フフッ…と思ってる時には食べてもらえないと思います。なので、いろんな人がいるからいろんな漫画を描いても大丈夫なんじゃないかなと思います。
その点でこの「マンガの原理」は割と有無を言わさず「三ッ星レストランの料理」を作らせてこようとする本なので、この本を読んでみて難しすぎる〜!!って自信を失ってしまう前に先に引用した山本弘先生の書かれていた「誰のための料理か」っていうのを自分で考えてみるのがやっぱりものすごく大事だと思いますね。
ワイは友達に手料理を振る舞いつつ、地元で好かれてる町中華のチャーハンみたいな漫画を描きたい。
……。
「お前はずーーーーっと漫画に対して大雑把なスタンス取ってるけど一応商業やってんじゃねえかよ、プロじゃねえのかよ」と言われると本当に返す言葉もございません。
「私はコミケで二次創作の新刊出した過ぎて商業のネームを3ヶ月くらい待ってもらっていました」の札を首から下げて廊下で正座しています。
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