【短編】ベジタブル
日々を快適に生きるコツはこの世の全員ゾンビだと思うことだ。昔、お母さんが教えてくれた魔法。僕はうまくやっているよ。
小学一年生、僕は初めてのピアノの演奏会でゲロを吐いた。コンクールとかそんな大それたものじゃなくて、普通のピアノ教室での演奏会。課題曲は「きらきら星」だった。緊張っていうものを僕は生まれて初めてそこで知った。みんな僕だけを見ている。たかしくんもまきちゃんもまきちゃんのお母さんもえみ先生もそして僕のお母さんも。みんなだ。みんな僕を見ている。
名前を呼ばれた。僕の番だ。返事をして、ピアノへ向かう、ピアノを弾いて最後に挨拶。それで終わり。
返事をした後、なんか口の中が変だなと思った。カラカラとは違うくて、水分は確かにあるはずなのに、潤っている感じがしない、口の中に知らない人の涎が入っているような気持ち悪さがあって、でも喉の奥だけはいくら唾を飲み込んでも乾いている。やめたい! 帰りたい! 帰ってアニメが見たい! 心の中で叫んでいるうちに今度は足が勝手に震えているのに気づく。足って本当に震えるんだ、漫画だけじゃないんだって素直に思った。心臓の音が聞いたことのないくらい早く、そして大きくなっていてウケるって思った。冷静だったわけではない、俺は冷静なんだぞって自己洗脳しようとしてただけだ。
椅子に座るとなんか違和感があって、高さを調節するのを忘れていたことに気づく。恥ずかしいけど一回降りて調節する。えみ先生がいつも言っていた。「演奏はピアノを弾く前から始まっているんですよ」って。良い高さ、良い姿勢、良い心持ち。それがないと良い演奏はできないらしい。僕は猫背だったからよく怒られた。
ピアノが目の前にある。黒と白の鍵盤は無機質すぎてすごく気持ち悪い。深呼吸をして落ち着こうとしてみる。なんにも変わらない。なんにも変わらないじゃないか、僕に嘘をついたのは誰だよ。時間の流れが異常に遅い。やめたい。やめてお母さんのグラタンが食べたい。
その時、お母さんが言っていたことを思い出した。
「ゆうくん、秘密のおまじないを教えてあげる。もし明日のピアノ発表会で緊張してどうしようってなったらね、みんなをかぼちゃだと思うの。頭がみんなかぼちゃなの。そう、かぼちゃ。みんなに見られていると思ったら緊張しちゃうけど、周りにかぼちゃがいっぱいあるだけだと思えば緊張しないでしょ?」
きらきらひかる おそらのほしよ
目を閉じて唱える。みんなかぼちゃだ。みんなかぼちゃだ。みんなかぼちゃなんだ。怖くない、かぼちゃだ。かぼちゃなんだ。
まばたきしては みんながみてる
自分を思い込ませて目を開ける。大丈夫、大丈夫だ。さっさと弾いて帰ろう、聞いてる人なんていない、みんなかぼちゃなんだ。
「ゆうきくん、準備良いかな?」
きらきらひかる おそらのほしよ
先生の声がして、一瞬顔を上げると、そこには当然のようにたくさんの人の目があった。目だ。これは人間の目だ。みんなが僕を見ている。頭が真っ白になって目が熱くなって、胃からさっき食べたカレーパンだったものがジェットコースターよろしく込み上げてきて、喉が言うことを聞かなくて、我慢なんてできずに全部をぶちまける。
ああ、鍵盤が。早くきらきら星を弾かなくちゃいけないのに。
ねぇお母さん、そもそも僕はかぼちゃの煮付けが嫌いじゃないか。例えならせめて別の野菜で良かったじゃないか。