【短編】点滅
「ありあまるほど金があったら何をしよう」なんて考えていた。バスの中、ポケットの中の携帯を取り出すことすらめんどうくさくて、私はどうでもいいことを考えることで暇を潰そうと思った。
赤信号。身体全体がエンジンの身震いで細かく不規則に揺れている。なんとなくクラッチを変える瞬間を見たくて運転手を凝視していた。頭では何か欲しいものを、目は手を。考えているような、考えていないようなあのまどろみの時間。猫が欲しいなとかそんなことを思った気がする。
一瞬。身体が浮いたような感覚を覚え、意識が現実に帰ってくる。
青信号。シフトレバーの位置は既に変わっていた。窓に目を向ける。バスは夜の中を走る。
夜のバスは特別だ。全部がぼんやりとしている。どこへでも行ける気がするし、どこにも行けない気もする。ただ大きなものに、揺られて、止まって、また揺られる。その繰り返しの中に自分がいる。うるさくもないし静かでもない。みんなひとりぼっちだけど、このバスの中にいる間だけ私たちは運命共同体だ。バスから降りればまたそれぞれの生活が、物語が始まってしまう。
四ヶ月に一回ぐらい、私はプチ家出をする。夜、一人で目的もなく外に出て二、三日帰らない。今日はその二日目だった。
適当な所でバスを降りてとりあえず歩く、携帯は電源を切っている。こんなものがあるからよくないことが必要以上に起きるのだ。だんだんと景色がぼんやりしてきて、どうでもいいことをまた考え出す。なんで人間はいち生物なのに死にたくなったりするのかなとか、センスと才能って何が違うのかなとか、期待しないってどうやればいいのかなとか、何も考えないで生きている奴が結局一番幸せだよな、どうかな、とか。そんなことを気がついたら。別に意味なんてないし必要ない。
景色は大して変わらない。目の前の自販機の赤がいつもより濃く、より赤く見えて、まるで自分のことを責めているように感じた。お金を入れれば光って、用が済んだらまた暗くなって、その単純さだけが私を落ち着かせる。
雨が降っている気がした。
雨なんて降っていなかった。
大分歩いた。今日の寝床を見つけようとスマホの電源を仕方なく入れる。画面には母からの不在着信とか、どうでもいいセールのメールとか、見たくもないものが一気に押し寄せて、肺が苦しくなる。深呼吸を二回、三回目に息を吐ける分全部吐き出してゆっくりと鼻から吸う。最後にほんの少しだけ息を吐く。駄目なときはそうやっていつも切り替えてきた。
バッテリーの残量が少なくて、どうしようかとマップを適当に眺めていると、ちょうど近くにコンセントが設置されてあるファミレスを見つける。夕食ついでにそこへ行こうと思った。
無音のヘッドホンから聞こえてくるのは、ミニマルになった世界の音だ。それは例えば私の呼吸の音とか地面から骨に伝わる振動の音とか、誰かの識別できない言葉自体が持っている純粋な波の音とかそういうもので、それらは私の周りに、ただ傍にいてくれて、そのおかげで私はまた私の中だけに潜ることができる。
黄色の看板、赤い文字。目に入ってふとまた現実に戻ってくる。一瞬で景色にピントが合う。寝起きの夢を思い出せないように、さっきまで何を考えていたかもう思い出せない。店に通じる階段を登る。吸い寄せられるように私は店に入った。
当たり前に店内は空いていた。一番奥のテーブルに座って、文庫本を取り出す。タブレットを操作してメニューを見る。どれもおいしそうだ。少し悩んだ後、たらこスパゲッティと、シーザーサラダ、フライドポテト、それにドリンクバーをつけて頼んだ。少し頼みすぎたかもしれない。スマホを充電して文庫本を読み始める。よほど空いているのか、十分と少しで全部のメニューが揃った。
何を食べてもおいしい、それだけでなぜか、少しだけ悲しくなる。知らない誰かからお前の辛さはまだ足りないと言われているようなそんな気がする。全部自分が嫌になって、コーヒーを一口飲んで、忘れようと文庫本をまた読み出した。
日常は毒だ。自分のコスプレをしているように感じる瞬間が多くなると私は家出をしたくなる。他人から見た私っぽい返事とか私っぽい笑い方とか、私っぽいノリを自分がわざとしているなって感じる瞬間があって、そんなとき私は私自身をゴミ箱に一回捨てたくなる。うんざりする。本当の私がいるなんて思ってないけれど、これは私じゃないな、偽者だなってそんなときは思ってしまう。そこから先は何をしても全部演技だから、嘘だから、自分に対する気持ち悪さと他の人に対する罪悪感みたいなもので心がいっぱいになって、家出がしたくなる。一人になりたくなる。
認めたくないけど、私という人間は私以外の人とか街とかそういうものでできている。私にとって家出は強制的にそういうものから自分を少しだけ開放するため、私が私を捨てるための儀式だった。
ここまで自分の家出癖を言語化できたのも最近で、気づいたときには我ながらなるほどなと思った。
四十ページぐらい読んで、文庫本を一旦閉じる。コーヒーが冷めて、フライドポテトはしなしなになっている。相変わらず人は少ない。くたびれた若いサラリーマン風男、金髪紫パーカー女、量産柄シャツ大学生、そして伊達眼鏡プチ家出少女の私。存在しているだけで私たちはお互いを救っている。そう信じている。こういう日はしょうがないんだって自分に言い訳して、無理やりにでも自分を許す。気持ち悪いな、とは、思う。冷めたコーヒーを胃に流し込んで、「まずいなぁ」とあえて口に出す。おかわりを持って来るために立ち上がろうとしたところで、こちらを見ている彼女の目に気がついた。
「全てはタイミングだ」なんて誰かが言った。最高な夜も最低な夜も特別な夜って言い換えれば同じ夜だ。あのとき、そんな予感が私にはした。特別な夜に私たちは出会ったのだ。
「ねぇ、ここいい?」
「いや、え、はい?」綺麗な女が目の前に立っている。席は、やっぱり空いていているからわざとだ。彼女は当然のように相席してきて、メニューを広げ出す。店員も私たちが知り合いなのだと勘違いしたのかすぐに水を持ってくる。
「何食べよっかな、うーん」状況が飲み込めない。眉間に皺寄せながら真剣に悩んでいる。静かでもうるさくもない、私だけの名前のない特別な空間が引き裂かれて、なぜか目の前に知らない女がいる。それにしても綺麗な黒髪だ。私のとは大違いで。
「すいませーん」
大きく手を上げて店員を呼ぶ。店員はすぐに来て注文を受け、そそくさと厨房に帰っていく。タブレットでいいのにって思う。
「わたしきょうか。鏡に花で鏡花です。怪しい宗教の勧誘とかじゃないから安心してよ」
「いや……あの全然安心できないんですけど」
「名前なんていうの?」
「みゆです。実る夢で実夢です」なんで答えているんだ私は。
「めっちゃいい名前じゃん。かわいいね」ニカっと笑う人だった。
「アイスコーヒー作ってくるね、実夢はなんか飲む?」
「じゃあ……ブレンドコーヒーで……」って、え?
そう言って鼻歌を歌いながら鏡花は出ていった。何の曲かはわからなかった。
「どうでもいい話していい?」戻ってきた鏡花はアイスコーヒーを一口飲み、ため息をついたかと思うと話し始めた。
「いいですけど、話したらすぐ帰ってください」
「わたしね、今日死ぬ予定だったんだ」
「なんですか急に」
「まあいいじゃん聞いてよ、人が死のうと思った話なんてなかなか聞けないよ? てか、ここちょっとさむいね」勝手に私のフライドポテトを食べて、勝手にまた鏡花は話し始める。
「これといったきっかけはないんだけどさ、最近ね、なんか一番楽しい時期ってもう終わっちゃったんじゃないかなーなんて思ったの。こっから先、楽しいことも辛いこともたくさんあるんだろうけどさ、それってもう過去のパターンの組み合わせだけ変えた繰り返しなんじゃないかなって思ったの。思ったっていうか感覚としては気づいたって感じなんだけどさ。こういう話大丈夫? 続けていい?」
「聞くだけなら。はい」
「ありがとう。それでね、そう思っちゃってからは毎日全部同じように感じられてさ。もう何してても自分に嘘ついてるみたいで、自分が自分の演技をしてるみたいに感じられてさ。意味わかんないじゃん。そしたらわたしの人生一回捨てたくなったの。それで死のうかなーって思ったわけ。どの方法が手っ取り早いかなって思って、痛いのとか人に迷惑かけんのは違うじゃん? だから薬飲んで死のうと思ったんだけどさ、これがなかなかできないんだよね。わたしの中のどっかがまだ生きたいって思ってんの。ウケるよね。あんなに死にたいって思ってたのにいざってなったらビビってんの。つーか話してみて思ったけどやっぱ絶対初対面にする話じゃないよねこれ。ごめんね」なんとなくこの人は私と同じ星の人だ、この人は私の一つの将来の姿だって思った。
「なんかそれで、全部やめたくなって、全部今の気持ち吐き出したくなって手頃な人を探してたらあなたがいたってわけ」またニカっと笑った。
「なんで私なんですか?」
「うーん……自分にしか興味なさそうな顔してたから?」
「どんな顔ですか」少し笑ってしまう。
「そもそも、話す順番ってのがあるでしょ。会っていきなり死のうとした話するなんて宗教勧誘よりずっと怖いですよ」
「そういうのめんどくさいじゃん? いいじゃん、結局聞いてくれた訳だし。あとタメ口でいいよ」
「お待たせしました。シーフードドリアです。チョコレートパフェは食後にお持ち致しますね。以上でよろしかったでしょうか」
「はい、ありがとうございまーす」
「ごゆっくりどうぞ」猫背の店員が眠そうな顔で帰っていく。
「ちょっとお腹すいちゃった。食べるね」
「変な人だなぁ」
鏡花が無言でドリアを食べている間私はフライドポテトをつまみながらまた文庫本を読んでいた。この奇妙な状況に私はもう慣れてしまって、むしろ楽しんでいた。
鏡花は本当においしそうにドリアを食べた。小さい子供みたいに過剰においしそうに食べ物を食べる人が私は好きだった。たったそれだけで私はその人をいい人だと思えるのだ。
食後のチョコレートパフェを食べながら彼女は話し出した。
「それでさ、実夢はなんかないの? 今度はわたしが実夢のサンドバックになるよ。もちろん話したくないことは無理に話さなくてもいいけどさ」
話したいこと、か。私は自分でいうのもなんだが自分を飼い慣らすのが上手い方だと思う。この家出癖は特別で、大抵のことは寝るかメモに書き殴るか美味しいものを食べれば一日で乗り越えられる。それでも駄目なときは友達に「絶対に否定しないで」って前置きしてただ聞いて共感してもらえれば大抵大丈夫になる。それが私の処世術だ。だからこの場で赤の他人にしか言えない特別な悩みなんてものを少なくとも今の私は思いつかなかった。
「私は、別にないかな」
「えー、つまんないの」
「鏡花が無理に話さなくていいって言ったんじゃん」お互いを名前で呼ぶのもタメ口も気がつけば体に馴染んでいる。
「そうだったそうだった。じゃあ代わりに質問ね、いつも実夢はここにいるの?」
「いつもって?」
「だから、こんな深夜に一人でこのファミレスにってこと。また会いたいじゃん」
「いつもじゃないし、ここに来たのも初めて」
「なんでまた」
「家出みたいなもんかな」
「……なんかわたしたち似てるね」鏡花がニカっと笑って言う。
「そうだね」
客は私たち二人だけになっていた。嫌いな曲は何? 嫌いな本は? 嫌いな人は? 嫌いな季節は? 「好きなものより嫌いなものが一緒だと仲良くなりやすいらしい」という一理ありそうでなさそうなことを鏡花が言ったことをきっかけに私たちは嫌いなものを挙げては同意したりしなかったりした。好きには惰性が含まれることがあっても嫌いには本音しかないからよかった。どうしても許せないことは? 殴りたくなった同性の仕草は? 一生やらないって決めている最低なことは? そんな明日になったら忘れてしまうようなことをコーヒーを何回もおかわりして話し続けた。
「人間やろうと思えばなんだってできるんだよ」鏡花がテーブルに突っ伏しながら言った。
「死ねなかったくせに?」私が返す。
「うるさいなぁ。ていうか死んでいいときまで死ねないようにできてるんだよ、きっと」顔を上げた鏡花と目が合う。やっぱり綺麗な目だ。
「いつだよ死んでいいときって」
「わかんない、今頭回ってないから信用しないで。でもね、お前はまだ耐えられるってわたしじゃない誰かに言われてる気がしたの、あのとき。だから、どんだけわたしは死にたくても私の身体は死ぬことを許してくれなかったんじゃないかって」
「よくわかんない」私も少し眠たくなっていた。
「そっか、残念だなぁ。でもね、わたしはさ、簡単に死ねないからこそ普段から我慢なんてしないで多少我儘でも無茶してでも自分の思うようにしていこうって思ったの。そこで死ねたらラッキーだし、無茶した結果自分の望む結果になったらそれはそれでハッピーじゃん? どっちも勝ちってやつ、win-win? 違うか」
「もっとわかんないよ」
「そっかぁ。残念だなぁ」一人言のように鏡花は呟いた。
ファミレスから出るともう外は少しだけ光を取り戻していて、私たちの真夜中はあっけなく消えてしまっていた。冷たい空気が身体を包む。悪いこと全部から守ってくれそうな、そんな冷たさだった。
赤信号。鏡花がどこか遠くを見ながら話し出す。
「ねぇ、実夢」
「どうしたの」
「私今なんでもできる気がする」
「今なら死ねる?」
「むしろ逆、何やっても死ねない」鏡花が笑う。
「そりゃあよかった。一緒に死のうとか言われるかと思ったよ」
「うんうん、それもありかもねぇ」過剰に冗談めいて話すから逆に冗談に聞こえない。
「実夢、さっきファミレスで言ったこと覚えてる?」鏡花と目が合う。大通り、早朝にもかかわらず車は多い。
「あのよくわかんない死んでいいときまで死ねない理論?」
「そうそれそれ」
「それがどうしたの」
鏡花は目を瞑って、息をほんの少しだけ吐いたかと思うとあの笑顔でこう言った。
「証明するから見てて」
「え?」
瞬きの間。
鏡花が、少しだけ前にいる。
横断歩道の白い線。鏡花の黒髪が揺れる。車の急ブレーキ音とかアスファルトとか信号の赤がぼんやりと視界に映る。ここだけ、世界のルールが全部変わっている。
呼吸ができない。止めようと伸びる手が、叫ぼうとする喉が、いうことを聞いてくれない。
ハイビームに照らされた鏡花が踊っているように見えて、まるでそれは劇の一幕のようで、リアリティが薄れた現実で。彼女は今、繰り返しの外にいる。それはただただ美しくて、私は彼女から目を離すこともできず、呆然と立ち尽くすしかできなかった。
「ほらー生きてた! 実夢みた?!」
「いゃ、え……?」咄嗟に出た声に空気の乾いた音が混ざる。たった一瞬が永遠に感じられ、時間軸が今に戻される。
ついさっきまで横にいた彼女が向こう側にいる。笑ってこっちに手を振って、「じゃあね!!」と言って一目散逃げていく。
震える喉でゆっくりと息を吸う。
空っぽの私に世界が綺麗に溶けて混ざる。電柱も信号機も朝焼けも全部が全部、今だけは彼女のためだけに存在していると思った。
あの綺麗な黒髪が信じられないくらい揺れている。鏡花が走っている。さっきまでの緊迫感が嘘のようで、目の前の現実の呆気なさとおかしさが私の心をいとも容易く緩ませて、自然と笑みが溢れてくる。
少しずつ、呼吸が少しずつ落ち着いていく。鏡花がどんどん小さくなってもう少しで見えなくなりそうだ。
「ばかだなぁ」あえて口に出す。必死に走っている彼女の顔はどんなだろう。全力疾走してる鏡花もきっと美しいんだろうななんて思ってまた笑った。
車はぐちゃぐちゃだし、呆気に取られた人たちはまだ動かない。世界が正常に戻るにはもう少しだけ時間がかかるのだろう。
信号が青に変わる。
一回だけ大事に深呼吸をする。
オレンジ色の世界で、私は正規ルートを使って堂々と前を向いて歩き出した。
本作品は、筑波大学文芸部が発行している部誌「樹林」147号への掲載作品です。
樹林147号はこちらhttps://drive.google.com/file/d/105PN_JUK1wQiq3Vzg29oSPD-CIVwagDM/view?usp=drivesdk
(椎名十七 先輩のnote「たとえばあなたの夢」よりコピペ)