【短編】便り
路面が赤い道路を過ぎたら電話をかけるのがお盆に母方の実家へと行くときのいつもの習慣だった。母から携帯電話を借りて番号を打つ。数回コールがなって祖母が決まって電話に出た。
「赤い道路すぎたよ、もうすぐつくからね」
「おばあちゃんだよ、わかったよ、気をつけて来るんだよ」
車線を変更して橋を渡る、そのとき左手に見える海が好きだった。さびれたカラオケを通り過ぎ、中古車が並んだところを過ぎたらもうすぐだった。車を駐車場に止めて、僕がチャイムをならす。ガラガラと玄関の扉を開けた祖母が笑顔で「よくきたね、おかえり」と言ってくれた。
僕は祖母と祖父が大好きだった。祖父はいつも優しくて、僕に将棋を教えてくれた。栗饅頭を食べながら、祖父と一緒に将棋を打つ。ルールがよくわかっていないときの自分は「歩」を全部「と」にすれば勝てると思って盤面の一行全部を「と」で真っ赤にしたこともあった。祖父はそんな僕のはちゃめちゃな打ち方を「すごいなぁ、真っ赤だなぁ、どうしようかなぁ、すごいなぁ」と褒めてくれた。
将棋の指し方に慣れた頃には六枚落ちで勝負をすることが多かった。負けることも勝つことも同じくらいあったが、今思えば祖父は僕の実力に合わせてこちらにわからないように手を抜いてくれていた。とても頭の良い人だった。僕は祖父の怒った姿を一度も見たことがない。
対局をしている最中は二人だけだった。一度母が僕と祖父の対局を見ながら「あー」とか「うわ、とられちゃったね」などと小言を言ったときに、「やめなさい」と普段は聞いたことのない芯のある声で一言だけ盤面を見ながら呟いて、それで母はしゅんとしてそれ以降口を挟むことはなかった。
それからは祖父の部屋で指すようになった。対局中唯一祖父の部屋に入って来てよかったのは祖母で、ふすまを開けて普段家では買わない高いオレンジジュースの入ったコップを僕にくれた。祖父には温かいお茶かコーヒーがいつもだった。
祖父との記憶は本当に断片的で、ミュージックビデオの間奏部分で流れる数秒のカットたちのように、思い出すときに出てくるのは短く音のない光景だった。匂いも温度も、覚えていない。
祖父が死んだのは小学一年生のときだったと思う。人の死に間近で触れたのはそれが初めてだった。リアルタイムで計測されている心拍数が徐々に小さくなっていき、僕が祖父を呼ぶと一度だけ高くそれが上がった、らしい。病室を出た後でうなだれている母を見たのを覚えている。
何度も二人で将棋を指したあの祖父の部屋と隣の部屋を繋ぐふすまを外して少し広い部屋を作り、そこで葬式が行われた。経典が読み終わり、お焼香が済むと母や祖母はすぐに料理を作るために台所へと戻っていった。僕はテーブルにあったオードブルとか寿司をテレビを見ながら母の兄と食べていた。そのとき、
「ピーン……ポーン……」とチャイムのような音が鳴った。それは身体が思うように動かなくなった祖父が家族を呼ぶために祖父の部屋に取り付けた介護用のベルの音だった。不自然なその状況に最初は聞き間違いかと思った、が、それは何度も何度も鳴り続ける。
「ああ、じいちゃんまーたならしてんな」
隣にいる母の兄がこっちを見るでもなく、当たり前のように、少しうっとおしそうにそう呟いた。ベルはまだ鳴っている。僕は祖父が自分のことを呼んでいるのだと思った。そう思えて仕方がなかったのだ。必死でベルを探した。祖父の部屋は葬式の会場になっていたため、そこには当然なく、リビングも、台所も、トイレも、探しても探してもそれは見つからなかった。そのうちベルの音は止んでしまった。
それからのことはあんまり覚えていない。数日後に祖父が死んだことがたまらなく悲しくなり、学校の廊下で泣いていた記憶はある。祖父についての楽しかった記憶も悲しかった記憶も、思い起こされる光景はどれも自分を俯瞰したようなものだった。泣いている最中でさえも、その俯瞰の目から逃げられなかった、真に悲しむことだけになれなかった、のを覚えている。
新幹線を降り、エスカレーターを登ると閑散とした駅のホームが出迎えた。どこにいても夏の暑さは耐え難いが、湿気が少ない分地元の方がまだマシだなと毎回考えることを懲りずにまた考えていた。
レンタカーを借りて母方の実家へと車を走らせる。僕が働き出してからすぐに父が死に、母は母の実家へと戻っていた。僕たちがかつて住んでいた家は取り壊すわけでもなく形だけ残っている。田舎でそれなりに大きい家だったため賃貸として貸せないかということだけ話してそれっきりだ。
スマホで母に「今から出発するから四時過ぎには着くと思うよ」とメッセージだけ送った。
車の中であのベルの件を考えていた。成長した今となっては僕に気をきかせてなのかなんなのか理由はわからないが、誰かが、あのベルを押していたのだろうなと思う。未だにその真偽も真意もわからず、今まで聞き出せずにいた。そこまで気になっているわけでもなかったし、なんとなく聞かない方がいい気がしていた。
車線を変更して橋を渡る、左手に海が見えた。家電量販店を通り過ぎ、潰れたラーメン屋を過ぎたらもうすぐだった。車を駐車場に止めて、チャイムを鳴らす。ガラガラと玄関の扉を開けたのは母で「おかえり」と言ってくれた。
荷物を下ろし、手を洗ったら、祖父の部屋に行き、小さな仏壇に線香をあげる。隣に祖母が来て、僕のあとに線香をあげる。手を合わせて
「じいちゃん、孫が帰ってきたよ、こっちは元気でやってるよ、見守っていてくださいね、お父さんにもよろしくね」と目を瞑り呟く。線香の立ち登る煙と祖父の遺影を見ながらそれを聞いていた。祈りを終え、立ち上がろうとした祖母へと向かって話しかける。
「ばあちゃん、ちょっと聞きたいことあるんだけどいい?」祖母になら聞ける気がした。
「うん? ばあちゃんにわかることかな?」祖母は不思議そうな顔でこちらを見つめる。
「じいちゃんが亡くなる前に使ってたさ、じいちゃんが身体動けんくて人呼びたいときに使ってたベルって今ある?」少し考えたあと、
「ばあちゃんはわからないね、じいちゃんの物で残っているのはここの部屋にある物で全部よ」祖母はゆっくりとそう答えた。
「そっか、ありがとうね」
「車運転して疲れたべ、休め休め」
他の家族には聞く気になれなかったし、祖父の荷物を漁るのもはばかられたので結局あのベルの音については何もわからないままで終わった。
家族に近況を少し話し、一緒にご飯を食べ、お酒を飲んだ。出されたカレーはいつも通り水っぽくて、言えないままこんな歳になってしまったなと思った。自分の仕事やプライベートについてあまり多く語るのが苦手な自分を見兼ねて、
「別にいつやめたっていいんだよ、どうにかなるんだから、なるようになるんだからね」と母が言う。
「今のところ大丈夫だよ、仕事も楽しいし、同期も上司もみんな良い人だし」半分本当で半分は嘘だった。心配はなるべくかけたくない。
そろそろ寝ようとなり、「おやすみ」と言ったあと、いつものように祖父の部屋に布団を敷く。豆電球にして、布団に横になろうしたところで壁の色褪せた写真が目に入った。僕と祖父との写真だった。祖父の身体が思うように動かなくなる前に最後に行った旅行のときの写真で、写真に映る二人は懐石料理を食べてピースサインをしていた。
「会いたくなったら電話してな、じいちゃん、呼べばどこにでも車で迎え行くからな」そう言っていたのを思い出した。
「……」
「じいちゃん、いるなら返事してみてよ」
……意味のない呟き。ベルは、鳴らない。鳴るはずがない。遺影はあの笑顔のままこちらを見ている。まあ、そうだよな。「じいちゃん、おやすみ」遺影に向かって呟いた。
その瞬間、全身に鳥肌が立った。常夜灯の部屋、背中でスマホのバイブ音が、聞こえた。ただの偶然にしてはタイミングが良すぎた。そんなわけはないと自分を落ち着かせるために深呼吸をして通知を確認しようとするが、なぜか新しい通知は見当たらない。バイブだけオンにして通知のマークをつけないように設定したアプリがあったとか、誰か知り合いが生配信のようなものをしようとした後すぐやめたとか考えられる可能性はいくつかあったけれど、どれも非現実的だった。少しして落ち着いた後、どちらも非現実なら祖父が返事をしてくれたと思っていいとそう思った。
笑顔でもう一度「ありがとうね、おやすみ」と言って眠りについた。それでいいと思った。
仕事の都合で翌日には家を出た。
「身体気をつけるんだよ、ご飯ちゃんと食べるんだよ、無理しないんだよ」と祖母に言われ、「ありがとう」と返す。かつては母が毎回帰るとき貰っていた栄養ドリンクを今度は自分が貰う。レンタカーで駅へと向かう。哀愁はなく、自然と自分の心が日常へと戻っていく、時間の流れ方が変わっていくのを感じていた。
駅に着き、切符を買い、指定の座席に座る。夜には向こうに着くだろう。忙しない日常に戻るのにうんざりしながら、スケジュールとメールを確認する。至急進めなくてはいけない案件は特になく、ひとまず安心して背もたれに身体を預ける。
動き出した新幹線の中、横を通る人の風に乗って柑橘系の香水が鼻をかすめた。服に残っていた微かな線香の香りはもうどこにもなく、200 km/hで過ぎていく景色を、ただ眺めていた。