見出し画像

【読書記録】『巨匠とマルガリータ』(上/下)ブルガーコフ作

『巨匠とマルガリータ』(上/下)
ブルガーコフ作 水野忠夫訳 岩波文庫 2015

現代日本人作家による現代の日本を舞台にした小説であれば、わたしは多くの場合、作者自身について何も知らなくても、それなりに虚構の世界に遊ぶことができる。当然、歴史・時代背景・社会状況・慣習について、ある程度馴染みがあるからだ。作者の生きた時代や地域、言語が自分の守備範囲から遠ざかるにしたがって、「書き手の想定内の」読者像からも離れていく。だからこその面白さはあるにしてもそれは奇想天外さや異国情緒の愉しみであって、作者が込めたメッセージを汲み取れずに終わるおそれもある。

しかし、わたしはフィクション作品はそれだけで自立した世界であってほしいと願いもする。時代背景や作者についての前提知識は読書においてほんとうに必要なのだろうか。一般読者であるわたしの頭の隅にこの問いはいつもある。

ロラン・バルトが『作者の死』のなかで述べているように 「これからのテクストは、テクスト内のどこにも作者の姿が見えないように編まれそして読まれることになる」のだとすれば、スターリン時代のソ連の芸術家であったブルガーコフによって書かれたという(じつはとんでもなく意味のあることがあとでわかった)ことを「抜き」にして『巨匠とマルガリータ』を読んでもよいではないか。

この『巨匠とマルガリータ』、岩波文庫のカバーの写真(キュートで凶暴そうな猫の落書き)が気に入ってジャケ買いしたもの。有名なロシア語の小説の日本語訳であるということしか知らなかった。どんな話なのかな、くらいの軽い気持ちで読み始めた。

主人公は3人。ピラトゥスとヨシュアの物語を書いて文壇から追放され、精神病院に入っている「巨匠」。巨匠の小説の主人公であり、エルサレムでイエス(=ヨシュア)の処刑を決定したユダヤ王国のローマ提督ピラトゥス。巨匠の愛人であるマルガリータ。
物語はこの3人の救済を中心に展開するが、すべてをつかさどるのは、悪魔の化身で黒魔術研究家のヴォランド教授である。
1930年代のモスクワの町で起こる悪魔仕掛けの大騒乱と、2千年前のエルサレムで起きた出来事が、入り乱れる時空間のなかで循環するかのように描かれていく。モスクワの町の描写が「動」であるならば、全篇通して挿入されているピラトゥスとヨシュアの物語は、エルサレムを舞台にした静謐さに満ちた世界だ。殉教者の酷い運命と為政者の苦悩が淡々と語られる。

第一部は、文芸誌編集長ベルリオーズのグロテスクな事故死で幕を開ける。謎めいたヴォランド教授に、自説である「キリスト否定論」を聞かれてしまった直後の出来事だった。『不思議の国のアリス』の荒唐無稽で不条理な世界にも、マジック・レアリズムの世界にも似て、痛快かつ禍々しい活劇が繰り広げられる。劇場、作家協会、市内のアパートを中心に権力に結びついていそうな界隈が次々に破壊され、人びとを恐怖と混乱に陥れる。ヴォーランド一味の仕業だと知りつつも、彼らの意図はつかめない。悪魔だけどキリスト教びいき? などとわたしもモスクワの人びとと同様ひたすらまごつきながらページをめくる。

目の前で編集長が変死したために発狂した詩人のイワンは、その直前にヴォランドの口から語られる「ピラトゥスの物語」を聞いていた。そして精神病院でこの物語の作者である巨匠と出会う。この精神病院の医師がストラヴィンスキー博士。偶然かどうかわからないが、同時代の作曲家でバレエ・リュスの名作『ペトルーシュカ』の作者の名もストラヴィンスキーだ。猥雑でカラフルでありながらどこか殺伐としているこのバレエの雰囲気と、日常をやすやすとのっとった非日常的な魔術の世界が展開するモスクワの町の描写が重なる……などと思いながら第一部を読み終えた。

第二部。ヒロインのマルガリータが登場。彼女はヴォランドと契約を交わし、悪魔の大舞踏会で女王役を務め、空を縦横無尽に飛び回る魔女に変身し、巨匠を精神病院から救い出す。悪魔との契約といえば、ゲーテの『ファウスト』。そういえばこの小説のエピグラフは『ファウスト』からの1節だった。黒魔術師と名のるヴォランドの秘薬によって若き魔女になったマルガリータは、悪魔メフィストフェレスに魂を売る契約を交わしたファウストを思い起こさせる。そういえばファウストの恋人の名はマルガレーテだ。

ともあれ、この辺りからヴォーランドたちの意図が見えてくる。彼とその手下たちは、巨匠を迫害したモスクワつまり権威や当局の中枢や小役人やその周囲の小物たちを攻撃しているのだ。そして、「原稿はけっして燃えないものです」というヴォランドの一言によって焼失したはずの巨匠の小説は蘇る。救出された巨匠はマルガリータと永遠に結ばれてモスクワをあとにし、天上世界へ旅立っていく。さらに巨匠は自分の小説の主人公であるピラトゥス、無実を信じながらもイエス(ヨシュア)を処刑し2000年ものあいだ苦悩し続けるピラトゥスを解放してやることでみずからの作品を完結する。小説内小説のあるメタ小説的構造が大好きなので、よくわからないまま満足して読み終えた。

ひたすら毒々しいモスクワの大騒擾と、禍々しいのになぜかユーモラスな悪魔の一団に圧倒され、後半のマルガリータの愛と献身、芸術の永遠の可能性の物語は、地下室と天空を自在に行き来して繰り広げられる。この幻想的な物語の主人公の巨匠は、やはりブルガーコフ自身の投影なのか。ではマルガリータは彼の妻か。永遠への旅立ちの前、巨匠は小説内小説の主人公であるピラトゥスとヨシュアを引き合わせ、ピラトゥスを2000年の苦悩から解放してやる。この赦しの意味は何なのだろうか。そして善悪や正誤の二元論から超越しながら、悪魔と慈父の二面性を持つヴォランドという悪魔。寓話的なナラティブであるからには、そこに込められた寓意を知りたいし、そのためにはブルガーコフの時代に戻ってみなければならない。

ソビエト連邦、と聞くとわたしの頭に思い浮かぶのは、大昔、母に連れられて見に行ったソ連のバレエ団の来日公演。母はロシア・バレエのファンだったのだ。豪華なプログラムにはバレリーナたちの経歴や写真が「人民芸術家」「功労芸術家」といった肩書きとともに掲載されていた。バレエダンサーは公務員である(今でも旧社会主義国の多くではそう)。国立バレエ学校で訓練を受けている超少数精鋭の子どもたちが首にスカーフをまいて女の子は頭に大きな造花をつけている写真(北朝鮮に行った時も同じような出で立ちのパフォーミングアートの子どもたちを見た)もよく見た。社会主義国の芸術家の境遇については、プリセツカヤの自伝『闘う白鳥』を読んで震えたことを思い出す。
また最近バレエ関係者から聞いた話では、スヴェトラナ・ザハロワというボリショイ・バレエの稀代の名プリマは、プーチン大統領から連絡が入ると世界のどこにいてもモスクワに駆け付けるのだそうだ。

当局と芸術家のあいだの「何か」だな。と(遅まきながら)気づいたので、ロシア文学史におけるブルガーコフの位置づけや、スターリン時代の芸術家をとりまく状況について予習してから再読してみた。

ブルガーコフは、スターリン時代に劇作家・小説家として意欲的な活動を見せながら、体制側からの検閲や介入や批判によってままならぬ思いを残したまま50歳を待たずに世を去った。しかし同時に彼はスターリンの大テロルの犠牲にはならず、むしろ独裁者の庇護めいたものを得ていたともいえるらしい。どういうことか。
1930~40年代のソ連のスターリン独裁体制下では、芸術家のサバイバル方法は二つあった。一つ目は筆を折るか時機を待つこと。そして二つ目は自分の名声を命綱にして作品内に地雷さながらの「仕掛け」を埋め込むこと。これは「二枚舌を持つこと」とも言い換えられる。芸術家の稀有な才能があればこその離れ業だ。
ブルガーコフの場合はどうだったか。初期の戯曲『トゥルビン家の日々』は、イデオロギー面で問題をはらみながらもスターリンの意思で上演禁止が引き伸ばされている。しかしその後は座付き脚本家としては鳴かず飛ばず。1937~38年にかけて吹き荒れた大テロルの嵐のなか、16万人以上が逮捕され7万人近くが銃殺された。もちろん芸術家も含まれていた。そんななかでブルガーコフは、『モリエール』『アレクサンドル・プーシキン』という強権力のもとで生きる芸術家の苦渋を取り上げた戯曲を発表している。ルイ14世vsモリエール、ニコライ1世vsプーシキン、つまり「独裁者vs芸術家」の構図。込められたメッセージ(=二枚舌)を読み取れないほどスターリンは間抜けではない。じっさい『モリエール』は上演禁止になっているし、そのあとに書いたスターリンの還暦祝いの祝劇『バトゥーム』は上演を許可されなかった。スターリン賛歌にもかかわらず検閲を受けた理由には諸説ある。それでもブルガーコフは逮捕されなかったし、亡命を希望する彼の嘆願状を受け取ったスターリンから直々に電話連絡を貰っている。それは独裁者からのある種の寵愛だったのかもしれない。スターリンは自分が愛でる才能の命運を、ときには援護しときには突き放したりしながら操っていたのだろうか。まるでヴォランドが主人公たちの命運を魔術で自在に操るように。猜疑心にさいなまれた独裁者。芸術愛好家で庇護者。怪物スターリンの一つの側面を、ヴォランドは象徴しているのかもしれない。モスクワの町の阿鼻叫喚は風刺作家たるブルガーコフの腕が冴えわたる活劇であるとともに、スターリンの大粛清を寓話的に描いているようにも読める。

小説内の小説の主人公ピラトゥスも、提督として市民の生死をその手のうちに握っている。無実を知りながら処刑を宣告してしまい、結局救えなかったヨシュア(イエス)に対する慚愧の念。引き返せないほどに強大な権力を持ってしまった孤独な独裁者の、正気の、人間らしい、弱い部分が、ピラトゥスに投影されているのではないだろうか。ブルガーコフにはスターリンに対してこうした複雑な思いを持っていたのではないだろうか。独裁者の弱さを描くという綱渡り。もしこれをスターリンが読んでいたらどのように思っただろうか。

たび重なる上演禁止で作家としての地位を失い絶望したブルガーコフは、病室に籠って『巨匠とマルガリータ』を推敲しながら失意のうちに亡くなる。夭逝したうえに活動期間も短かかったので存在を忘れられてきたブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』。原稿を保存していた未亡人エレーナの手によって発表されたのは1966年、死後26年が経っていた。推敲を重ねた作品は、グラースチノチ以降はさまざまな草稿(ヴァリアント)が発見され、検閲を含まない73年版も90年版はロシアで大変な発行部数を誇るそうだ。作中でヴォランドが巨匠にかけた「原稿は燃えないものなのです」という言葉が、なんと実現してしまったのだ! 『巨匠とマルガリータ』という作品がまるでみずからの運命を予告したかのように! 「まるで」というのは適当でないかもしれない。妻エレーナがマルガリータのモデルであるとするなら、ブルガーコフが妻による作品の救済を信じていたとしても不思議ではない。作品の永遠の命はあらゆる芸術的営みにたいして与えられるものであり、たとえ報われず迫害されたとしても救いや赦しはいつか訪れる。そしてそれはどんな時代であっても変わらない、いや変わらないものこそが真の芸術作品なのだ。

遠い時代の遠い地域で書かれた作品が日本語で手軽に読める。わからないことがあっても専門家による参考書がたくさんある。日本は翻訳大国といわれているそうだけれど、こんな幸せってあるだろうか。自分とは何のつながりもないような世界で誰かが創った作品によって、わたしはたしかに見知らぬ誰かと縁を結んでいる。そんな縁が時間も空間も超えてどんどん広がる世界を手に入れられる。現実は息詰まる世界になってきているけれど、かろうじて人間の愛を信じる気持ちは捨てないでいられる。だから読書はやめられません。

参考図書
『巨匠とマルガリータ』 ブルガーコフ/中田恭 郁朋社 2006
『はじめて学ぶロシア文学』 藤沼貴ほか ミネルヴァ書房 2003
『磔のロシア スターリンと芸術家たち』 亀山郁夫 岩波書店 2002
『大審問官スターリン』亀山郁夫 小学館 2006
『ファウスト』(一)(二) ゲーテ 高橋義孝 1967
『La mort de l’auteur』 Roland Barthes Manteia, n° 5 1968
 
#巨匠とマルガリータ #ブルガーコフ #ソ連 #スターリン #ロシア文学
#小説 #海外文学 #読書記録 #読了


いいなと思ったら応援しよう!