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【読書記録】『神』フェルディナント・フォン・シーラッハ

『神』フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳

医師は自死のほう助をすべきか? それは倫理的に正しいのか? 
戯曲の舞台はドイツ倫理委員会の討論会場。観客は公開討論を傍聴しているという設定だ。

自死の介助を望んでいるのは、妻を亡くした78歳(心身共に健康)。討論の参加者はほかに、倫理委員会の司会と委員一人、ホームドクター、弁護士、法学者、医学者、そして司祭。専門家の3人は基本的に自死ほう助に反対の立場だ。それぞれ自死ほう助に対する見解が述べられ、人間の「自己決定」権と「わたしたちの命は誰のものなのか?」という究極の問題をめぐって議論が交わされる。

わたし自身はもともと自己決定論者で、厳格に定められた規則と諸条件の検討を経たケースなら、臨死介助も許されるべきだと考えていた。
しかしこの戯曲を読み進める(=観劇している)うちに、少しずつ臨死介助に反対する意見のほうに気持ちが傾いていった。

自死を希望する78歳の男性に雇われた弁護士は、統計を駆使して法学者に挑み、医学者に対しては治療の中断と自死ほう助の境界線が曖昧なことや、死を「汚れ仕事」のように扱う医師のエゴを指摘する。司祭には、中絶法やピル解禁など生命倫理にかんする法制度が成立してきた経緯と自死の権利を並べてどこがいけないのかと迫り、カトリック教会のスキャンダルを持ち出して教会に道徳的問題を語る資格はないと皮肉る。

しかし、弁護人が専門家たちを理詰めで追求すればするほど、医師や司祭が日々立ち会っている現実の厳しさや救い難さが浮き彫りになり、人間の尊厳という底なし沼のような問題を、「自己決定」という原理だけで扱うのはとても無理だと感じた。

医師の自死ほう助を無罰化するのは、一個の人間である医師たちの人生にとってあまりに重い許可証ではないか。仮に医師が「死の許可証」を持ったら、患者は医師を信頼できるだろうか。

弁護士の理屈をもっともだと受け止める司祭の、静かだがふり絞るような叫び。よその子どもを事故死させてしまい、死にたいと願い続けている30代の女性のケースだ。彼女は本件の主役のような80近くの老人ではない。その彼女の自死をあなたは介助できるか?司祭は「生きることは苦しむこと」だという。

「苦しみを否定し、自殺を望む人は自分の人生の意味を否定しているのです。……現代社会は、幸福にこそ人生の意味があり、自分の死を自分で決められる人こそ自由だと信じています。しかしこれはとんでもない間違いです……あなたがおっしゃるとおり、キリスト教の信仰は理性的とはいえません。論理的ではないのです。そして妥協を知りません。神は、今日ほとんどだれも顧みず、ほとんど理解されなくなったことを要求しています。つまり人生の最後まであらゆる苦しみに耐え、そこから意味を汲み取れと」
作者シーラッハは、このカトリック司祭からのメッセージにもっとも重みを置いているようにも感じられる。『神』というタイトルの意味もそこにあるのではないだろうか。

正直、精緻に組み立てられた理論である「人権」や「自己決定」の重要性を承知しつつも、人びとの生への意志と迷いとに日々じかに向き合っている医師や司祭の体験から発せられる言葉のほうが強く心を揺さぶる。たしかに家父長制国家の再登場に宗教が手を貸すかもしれないのだから警戒は必要だが、西洋世界の人間観を支え続けてきたキリスト教の倫理を軽視することは不可能だ。たしかに医療従事者は患者の「生」の権利同様に「死」の権利をもサポートしなければならないのかもしれないが、不本意で残酷な死の現場に立ち会う日常を送るプロである彼ら彼女ら自身の言葉は重い。

「わたしたちの命は誰のものなのか?」という重いテーマ。人間は矛盾を抱えた存在で「最終的になにが正しくて、なにが間違っているかということや、世界のあり方の最終判断など存在しない」という点のみを、わたしたちは共有するのだ。
横道にそれてしまうが、「自死ほう助」は倫理的に許されるか許されないか、というテーマについて、現前/不在、内部/外部、自己/他者など、二項対立ではとらえられない関係性を持つものを脱構築するJ・デリダの考え方を適用できないかと考えてみた。脱構築では、決定不可能性があるとしたものを「名指し」することによって肯定的な何かに変化させることができるとする。本書『神』にこれを適用すると、「神の領域」(人知の及ばない「自然の領域」)と「名指し」しできるかもしれない。そしてこのことについて永遠に対話し続けなければならないという課題を共有しているという認識によって、わたしたちは他者と共存することの意味の一端を実感するのではないだろうか。

本作は戯曲であり、役者が舞台上で台詞を発し、それを観客(読者)が観ているという設定だ。そしてストーリー上の結末を決めるのは、観客つまりこれを読んで(観て)いるわたしたちの投票である。劇としての公開討論、そして役者による演技というクッションが挟まれていることで、おそらく永遠に解決できないであろう厳粛かつ生々しい人間の問題を客観的に、静かに深く考えることを可能にしてくれる。

巻末に「付録」として掲載されている倫理学者・医学倫理学者・法律学者による論考はいずれも、「自己決定」の尊重、自死ほう助の可罰性への反対姿勢を示している。戯曲中の内容とバランスをとるような構成にしたのだろうか。ともかく昨今の哲学・倫理の潮流はそうなっているのだろう。以前のわたしだったら、彼らの意見に賛成していたと思う。しかし『神』を読んだ今、大きく気持ちが揺らいでいる。

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