『天路の旅人』沢木耕太郎
西川一三。第二次世界大戦末期に「密偵」として蒙古人僧になりすまし、中国大陸の奥地にまで潜入し、終戦後もそのまま旅を続けてチベットからインド亜大陸まで足を延ばした人物です。インドで逮捕され日本へ送還されるまで、足掛け8年を蒙古人として生き続けた男。
正直、ドキュメンタリーとか旅行記には興味がないので、この本も読み続けるのがかなり辛かったです。それでも読ませるさすがの沢木節。
西川自身『秘境西域八年の潜行』という長大な旅の記録を書き残しています。そんな西川という人間への興味と、『秘境西域八年の潜行』に見られる矛盾や奇妙さ、割り切れない点をもっと知りたくて、作者は1年間西川へのインタビューを続けましたが、なぜかそれを作品にすることができずにいました。西川の死後、西川の遺族や編集者の協力もあって完成したこの本は、25歳の西川が中国大陸に渡ってから33歳で帰国するまでの、長い長い旅を丁寧に辿ったものとなっています。
「密偵」といってもスパイ小説のような派手な展開があるわけではありません。
日本軍が占領する満州の満鉄を辞職して、内蒙古に設立された興亜義塾という「国家のために挺身する若者」養成学校に入学、諸言語を学び、蒙古人または回教徒になりきれるような総合的な訓練を受ける。つまり日本が中国大陸にその帝国を拡大していく手先を養成する学校なのですね。その一途すぎる性格(と酒癖(笑))から、退学させられたり復学したりしますが、結局、君命を帯びて内蒙古から外蒙古へ身一つで旅立ちます。
何か具体的な諜報活動の案件があるわけではなく、日本の領土拡張のための生の情報を現地で拾ってこいということなのでしょう。
西川は当時の大部分の青年がそうであったように熱い愛国青年でした。お国にとって役に立つ人間になりたいのです。しかしその熱はやがて、「西北」(寧夏省から新疆省にいたる地域)というロマンあふれる響きを持つ未知の土地への憧れに向けられ、日本の勢力圏である内蒙古での活動には飽き足らなくなります。
「西北」を目指すには満州と中国の国境を突破しなければなりません。そのためには蒙古人のラマ僧になりすまして他の巡礼僧たちに混ざることが最も安全でした。
西川がラマ僧「ロブサン」になったのはそんな理由からでした。蒙古人として、そのときどきで旅の連れを変えながら、厳しい自然環と天候にさらされ、匪賊や官憲などによる妨害を受けつつ、チベットのラサまでほとんど歩いて旅をしています。最低限の食糧や身の安全の確保のために、騾馬やラクダの世話係から水汲み係まで何でもしながら、ラマ僧や商人たちの集団では働き者の評価を得て、各地の言語も習得して、どんな人ともわたりあう。しかし日本人の密偵であることは決して誰にもばらさない。身体的にも精神的にもあきれるくらい頑強です。
諜報活動上の必要からラマ僧に変装していたはずが、寺院で優れた師と出会い蒙古人やチベット人の僧たちと交流するなかで、聖地巡礼の旅そのものが修行なのだと気づく西川。
「お国のため」精神から、「自己実現」の希求への変移はそれほど深くは掘り下げられていません。私はその点にとても興味を持ったので少し物足りなかったのですが、西川自身がそれをドラマチックに作者に語ったわけでもないのでしょう。わりと淡々としている人です。
西川は日本の敗戦を知ってもなお、未知の土地へ行ってみたいという願いが強く、結局インドまで足を運んでいます。そして僧としてインドの人びとの高い精神性に触れ、「仏に会った」とつぶやくのでした。
このとき私は「Fake it till you make it」(形から入って本物になるみたいな意味?)という言葉を思い出してしまった。貧乏ラマ僧の格好をして、いろいろな階級のラマ僧に交わり、彼らと苦楽を共にし、巡礼・勤行・托鉢・御詠歌詠唱などを続けるうちに、西川のなかで日本人成分よりラマ僧成分が多くなり、国籍は日本でも心はもうラマ僧になっていたのではないでしょうか。僧である、ということは「身分」ではないのです。
西川自身、このまま僧としてその日その日を暮らしていけるような気がしてきたと言います。 最初の皇国青年からのなんという変化でしょう。
先にも書いた通り、西川の内面的変化について作者はくどくどと描いたりはしません。あくまでもノンフィクションです。
日本に送還された西川は、あれほど執着したアジア大陸とまったく縁のない仕事につき、亡くなるまで淡々と毎日を過ごしたそうです。意外な結末だと作者は言います。
しかし私はこの点についてこう思っています。彼の中には、蒙古人僧「ロブサン」というもう一人の自分が静かに生き続けているからではないか、と。
(2023年11月にインスタグラムに投稿した記事です)
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