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スローライフに憧れて
丁寧な暮らしを夢見るオーバーサーティーといえばわたしである。
これまでの生活スタイルではローズマリーのようなほったらかしても元気に育つ植物くらいしか手を出せないほどルーティーンの定まらない生活だった。ちなみにローズマリーを育てたことはない。菜園が趣味の友人が勧めてくれたのだが、未だ初期準備が億劫で手を出せずにいる。
時間がないならば、技量がないならば、根気がないならば買いましょう精神でここまできてしまった。時間をお金で買ってきたのである。ここまで書くと「本当に丁寧な暮らしに夢見てるのか」とツッコミが聞こえてきそうだがわたし的には結構ガチなのである、信じてほしい。その証拠に本屋に入った時には”丁寧な暮らし”と謳い文句の書かれた雑誌やムック本は必ず立ち読むし、会社で気晴らしに見るサイトは決まって丁寧な暮らし代表のサイト「キナリノ」だし、出掛けてふらっと立ち寄る店はオーガニック商品を扱う店が圧倒的に多い。何よりわたしのライフワークにもなっている旅を通して多くの丁寧な暮らしを実践する人々からたくさんの知識を分けていただいてきた。そんな出会いの機会が多いのはわたしが無意識にそういう人と出会う場所に赴いているからなのだと思う。
わたしは不便のないとされている東京で生まれそこで長いこと生活してきた。目が痛くなるようなギンギンの蛍光灯が照らすコンビニに仕事帰りに立ち寄ってはビタミンCのドリンク剤を買っていた夜行性の女である。しかし一度そこを離れ短い間でも不便の先にある豊かさで構成された丁寧な暮らしに触れるとその美しさにハッとする。わたしの感じている美しさとはその生活を選んだ人々の自身を大切にするマインドなのだろうと思う。そう、そこなのだ。それがない限りわたしがいくらローズマリーを育てようがキナリノに紹介されるコットン100パーセントの服を着ようが身体にいい味噌を買おうが、わたしの思う丁寧な暮らしは手に入らないのだ。行動から手に入る精神性もあると理解してはいるもののこの東京でそれをやっても意味があるようには思えなかったのである。
わたしは東京がそこまで好きではない。これを海外の知人に話すと不思議そうな顔をされるのだが、事実だからしょうがない。好まない理由はずっと曖昧にしてきた。なんかうるさい、なんか心地よくない、なんかめんどくさい。駅ですれ違う人は皆透明な膜を被っているようで苦しそうに見えていた。そしてわたしもきっと酸素が足りてなかった。旅に出る理由の1つに東京から離れたい気持ちはあったように思う。膜を剥ぎたい一心で働いて、人と関わって、生活した末に旅に出ていた。なんのしがらみもない場所でわたしはやっと大きく息が吸えたような感覚を得ていた。そして今オーストラリアにいるわけだが、わたしはここでもちゃんと呼吸ができているように感じる。こちらの便利なものは日本より不便で、なのに日本のように気軽に買える値段ではない。ご飯も自炊した方が美味しいし断然お財布に優しい。こちらでできた友人の多くは料理が得意なのだが、それは自炊の経験を多くせざるを得ない生活水準が原因なのだととある知人は話してくれた。しかし不思議なことに彼らから不足感を感じたことは一度もないのである。
そしてわたしも今その水準の中で生活しているわけだが、明らかに物欲は減った。本当に必要なものだけで生活が構成されている感覚が今は何より結構心地よい。
便利だから安いからひとまず近くに置いておくのではなく、自分が必要なものだけを近くに置くというシンプルな考えがわたしには自身を大切にする一歩のように感じた。この一歩は小さいけれど、やっと進みたかった方向に進むというこの行動すらも丁寧な暮らしに繋がっていくのだと思う。今ならローズマリー育てられるんじゃないだろうか。一度ネットで検索してみようか。
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借りぐらしのわたしには壁が高そうである。