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自爆と不幸な人生、八方塞がり、四面楚歌

――「あまりこういう不幸モノは話さないほうがいいよ」という人は多いかもしれないけれど、口に出して良かったことと悪かったことまとめてみるといいことより悪いことがいいこと以上に多く、自分は自爆と不幸の中を貫いて生きていた結果、好転させようとしても八方塞がり状態で、まさに四面楚歌。

不幸自慢じゃないけれどもどれだけ私よりみんなが恵まれているかということを知ってもらいたいし、仮に同じ状況の人がいれば繋がりたいというか、想いを共有したいと思って書いてみようと思います。

かなり重い内容にはなると思うので、耐性がない方や批判的な方はブラウザバックすることを強く推奨します。
この記事について批判されると多分さらに私の心の傷が深くえぐれてしまいます。

どんな人生だったかは過去に「いじめを受けた人の末路」を書いていますのでご参照ください。
今回の記事も若干これに合わせて書いていきます。




いじめと毒親からの過干渉

いじめと過干渉の話は幾度となく書いています。
小学生の頃から当時6年生のガキ大将から恫喝を受けたことを機にクラスの人からもいじめを受けるようになり徐々にエスカレート。

対してクラスの女子からも鼻くそペロリンチョしたの見られてしまい嫌悪感を持たれ、これもまたいじめの対象になってしまいクラスから存在を抹消まではいかないけどハブられる始末。
クラスの7割近くが自分とペアを組もうとすると明らかに嫌な顔をしていたのを思い出します。
今でも一応SNSなどで繋がっている元クラスメイトがいますが、会話からして明らかに嫌な顔をしているのが伺え、いつまで根に持っているんだろう…と思っているのが現状です。

成人式の際に親しい友人と会場入りするとみんなその親しい友人の名前を呼んではキャッキャしていましたが、なぜか私だけはお前誰だっけwあーあいつか…wみたいな表情でした。
中学の時に仲が良かった女子からも無視され、結局はそんなもん…と内心傷ついていました。

よくよく思えば2年生の頃に花いちもんめをやっていて、なぜか自分だけ最後にさせられ、笑われた記憶がありましたがあれもきっと気のせいではないはず…

クラストータル的にペアになりたくないと避けられ、休み時間はほぼ1人で校庭をウロウロしていてひとりで何か遊んでいると周りから指さして笑ってくることもあるし、男子からはボディタックルや爪刺し、勝手に自分のモノをおもちゃにして遊んで壊そうとしたり時には台風で休校になるにもかかわらず「お前だけ学校に来い」など脅されたり…
女子からはあの時の自爆行為で生理的に無理という感じで、話すだけでも避けながら話したりペアを組まなければいけないのに避けたり嫌な顔されたりと存在自体が不快かのような扱いを受けました。

親に相談しようと思っても結局何を言われるか分からず言えないままでしたし、学校の担任にも話したものの結局解決にも至らず。

本来なら学校は行きたくなかったのですが、地方特有の考えや家族も家族で過干渉なので学校へ行かないと言ったら何を否定されるか分からないため嫌々行かざるをえませんでした。
むしろ逃げ道がない中で八方塞がりな状態が小中と9年間続きました。

高校ではいじめはなかったものの関わりたくない不良生徒からのつるみや何もしていないのに「〇すぞ」と脅しがあり若干精神的にひよっていました。
なぜ自分だけにそういうのが来てしまうのでしょうか…

誰からもいじめを見ては助けてくれる人もいなければ見て見ぬふり、むしろ加担。そして担任までも加担。卒業するまでにごく一部を除きいじめに加担していたであろうほぼ全ての人からの謝罪はありませんでした。そして見て見ぬふりした人からもそう。成人式の時も。
自分たちは何もしてないと思っているのでしょう。
その謝罪は今もありません。

極めつけは家族からの過干渉でしょう。
小学1年くらいまでは普通の関わりでしたが、それでも長男なんだからというところであまり愛情を注がれた記憶がありません。

宿題が嫌々になりゲームをすると怒ります。
まあそれはどこの家庭でもあると思いますが、宿題が分からず遅々として進まない中、次は「早く風呂に入れと怒って来るのです。」仕方なくお風呂に入り、残った宿題を片付けると「早く寝ろ」と脅し、いざ布団に入って寝ようとするとアタマを叩いてきて叱りつけるのです。

また宿題の中に音読というものがありますが母親(毒親の元凶)に聞いてもらうように促すも忙しいから父親の方にしてと言われ、父親に催促しても「母親に聞いてもらって」と誰にも聞いて貰えないし、やらなかったら聞いていませんと理不尽な事を連絡票に書いてくるのでした。(妹のは聞いているようですが…)
また、私は体育が苦手でとにかく走ることが嫌でした。小学校で毎年やる持久走大会では最下位。「なんで毎年最下位なの!」と詰めて来るばかり。

学業でも理数系は非常に苦手でトータル成績が上位であっても理数系の成績が良くないと叱る始末。
部活でも親はやっていない弓道に対してなぜ昇段ができないんだと文句を言い、矢を放つのが早すぎると指導者が言っていることを真似して同じことをいう始末でした。
何か悪いことがある度に「なんでできないの!」ととしか言わず、極めつけには他人と比較して「お前は無能だ」というようなニュアンスで青少年期を過ごすのでした。

妹に対してはさしあたり普通でしたが常に私は長男であるからなのか誰かと比較して否定ばかり言っていました。

社会人になって趣味も増え、お出かけする機会がそこそこあったのですが家にお金を出してないという理由だけで人の趣味の行動に文句を言いつけては否定ばかりする日々でした。

特にうつになってから再度実家に帰還した時、母親からは「そんな怠け態度だから続かないんだ」とか「〇〇みたいにもっとまともな人になりなさい」や療養中に対して「怠けてないでさっさと仕事を探しなさい」とまるでうつ状態を理解していないかのような態度でした。

それらもありいじめを受けていることを言うことは全くできませんでした。
きっと学校とグルを組んでいたのかもしれません。

学校では仲間はずれやいじめ、、、
家庭では愛情不足、否定的言動、他人との比較、、、

これらが全て私の人生を歪ませ、狂った人生へと繋がるとは露知らず…

うつ病と発達障害

最初にうつ病を発症していますがその過程には新卒の会社での適応障害も離さなければいけません。

新卒の会社ではドラッグストアの総合職として将来本社でのエリート候補と言われるほど当時面接相手となった総務課長から気に入られていました。最終的には現場から引き抜かれる形で本社に異動になりました。

ここでも自分が自爆したことにはなるのですが、庶務業務をしながら電話の総合受付も出なければいけないという雑用ぶりでした。

最初の頃はぼちぼち出ていたのですが、クレームやら意味のわからない勧誘電話が多く、少し対応を間違えただけで何かしら上司からクレームが飛んでくるのです。

それに耐えかねた私はできる限り出たくない…と拒否反応。それを見ていたパートの御局様から「電話に出てね」と度々催促。

またそのお局からも業務を引き継いでいたので分からないところを何度か聞こうとすると「それ、この前言ったでしょ。1回で分からないの?」などと厳しい言動。

それは徐々にエスカレートし、分からないところを聞こうとすると無視し始めたり、きつい口調で「じゃあどうすればいいと思う?」など答えると「違うでしょ!」と厳しく非難してきました。

その後も同様な言動や行動が続き精神的に疲れ始めたのです。
それだけでなく本社の人=なんでもできる固定概念がこびりついており、物事は1回で覚えるというのは当たり前、できなければ「お前なにやってんの」という厳しい視線、できて当然だよな?という無言の圧力と常時ヒリついた空気に耐えられなくなりました。

さらに創業家や役員、優秀な社員に対する宗教的信仰が蔓延っており失礼のないようにと釘を刺されていました。

さらに固定的なマニュアルがあり、それ通りにやらないと上役や上司から叱責が飛んでくるというトンデモな会社でした。
さらに決め手となったコロナ感染拡大によってどこにも出かけることが出来ず、本来の趣味や活動を楽しむことができなくなりました。

ある日を境に吐き気や嗚咽感が強くなったり、血尿が出始めたり業務時間中も集中力が衰えるなどあったため心療内科へ診察。

その結果、「適応障害」の診断を受けたのでした。

その後時はたち、3ヶ月くらいの時を経て寛解方向、新たに転職したのでした。
しかし、薬が切れたあとで服用をやめて通院も途切らせたのが大きな間違いでした。

住み慣れた関東の地から遊びに行ったことあるくらいで住んだことがない中部地方へと異動となりました。

しかし、なれない環境となれない地に親友等がいないため名古屋エリアでの環境になれることができず適応障害と同じ症状が再発したのです。

さらに経験したこともない営業と引き継ぎを受けてそのまま放り投げ出され、さらに荒々しい言動や行動をするインフラ業界のためなかなか上手く顧客とも打ち解けられる感じはせず、しょうもないことで顧客に聞きに行こうとしたことに対して先輩社員はブチ切れし厳しい叱責。

この時点でもう既に心に限界が来てしまったのでした。

先輩には元々適応障害を患っていたということを伝え「上司に言いな」と言われ上司にその旨を明かし、心療内科へ通院することを伝えました。

もちろん吐き気(嗚咽感)、腹痛等だけでなく、業務中に集中力も途切れていたためその旨を医師を伝えると「中等レベルのうつ病ですね」と診断。
ここから現在に至るまで長いうつ病との戦いとなるのです。

翌日以降の仕事でも集中力が途切れているのを先輩から心配され、うつ病である旨を伝えると「上司に言った方がいい」ということで上司に伝えるも呆れられたような顔をされ、その後エリア統括の上司とも面談。最終的には翌月度いっぱいでの退職となりました。

直属の上司からは「もう明日から来なくていい。地元に帰りな。」と一掃。

とりあえず翌月度までには退去もしなきゃいけませんが、かなり精神的に辛い状態が続きなかなか動くことができませんでした。

月末くらいまで引越し業者を呼べなかったと思います。

実家に戻っても家族との対立等もあり、少なくとも1カ月は動くことができず…布団の中にもぐったり、親に起きることを催促されて嫌々ながらおきてボーっとしていることが多く、ひどいときには2週に1度は呼吸が荒れ、動悸を起こしがちでした。

しばらくしてから再び家族間で荒れ事が起こり、母親とのいざこざは日常茶飯事のこと、認知症と難聴化が進む祖母の生活行動に疲れ、話しかけられただけでも嫌悪感MAXでした。大きな声を出すことに疲れているためついに怒りがMAX。怒鳴りつけるように話すことが増えていました。
それだけではなく、車の運転も前が少し遅いだけでイライラ(特に大きな国道は。)。そのストレスから散財することが多くなり、その悩みを主治医に話したところで1つ検査をすることに。いわばADHDやASD(自閉症スペクトラム障害)に関するテストで、検査の結果、ASDは可能性が低いものの、ADHDに引っかかっていると診断されました。すなわち発達障害であることが判明したのです。

うつ病から少し寛解したものの発達障害は一生涯付き合わなければならないことが判明しましたが、あまり関係ないだろうということで、この先の転職ではオープンにすることはありませんでした。

しかし、オープンにしなかったことが次の就職先で障害者枠として働かざるを得なくなったのです。

転職

とかくしんどかったのが2社目〜3社目の時の転職でした。

2社目を退職すると決めたときは何とかしなきゃと思い転職活動に出ますが、転職活動のアドバイザーからはうつ状態ならば医師の指示に従って当面は休養をするべきとアドバイスを受けました。
実家に帰省後、精神状態が安定するまでは当面の療養をと医師に忠告を受けましたが、毒親の元凶である母親が「いつまでだらけているの!早く仕事見つけて働きなさい!」と執拗に言ってくるのでした。

仕方なく実家に戻り2ヶ月たった6月頃に医師の忠告や転職活動のアドバイザーからのアドバイスを振り切り再開。

「2社目は営業じゃなくてオフィスワーク系にすればよかった」と後悔するレベルでした。

転職活動を続けているうちに1社だけ「うちに来るなら内定あげましょう」と合格をいただいていましたが他社と比較したい(結果待ち1社の結果次第で決めたい)ということを伝えたのですが、合格をいただいた企業は次点の人を先に採用し、結果として見送りとなってしまったのです。

内定を貰った時点で結果待ちの1社を切ってしまい内定承諾してしまえばよかったと後悔し、やはり自爆行為だと後悔していました。

結局その後も面接までたどり着いても一次面接でほとんど採用見送り。これが1年半続いていたのでした。

大半はキャリア不足ですがきっとうつ状態ということも加味してリスクを取ったと見てもいいかもしれません。

もちろん親からは「いつまでだらけているつもりなの?」とか「耐性がないから続かないし取ってもらえないんでしょ」や「派遣で取ってもらったら?」と病み上り?状態の中、無理してでも転職活動をしていることに労わることなく文句を言い続ける始末でした。

親からの執拗な就職決定と企業からの見送りメールでさらに心が病んでいくのでした。

前職では中小企業の製造工場で商社部門の購買担当として働くことになりました。その上司もうつ病を経験しているので気持ちを理解してくれる…はずでした。
前職で1年経つか否かのある日。朝礼後に私だけを残し、上司と面談が始まりました。
きっかけはインボイスに関わる業務をやっていないことでした。
そのあとのことは記憶が薄れかけているので何を言われたかは思い出せませんが、なぜか入社後すぐの取引先見学などによる移動で居眠りしていたことを指摘。なぜなのかと問われて、「薬の影響かもしれません」と答え、その上の上司も登場。「君は向精神薬を飲んでいる。ということは眠気を引き起こす可能性があるわけだ。そんな君に法令上事故を起こされたら困るし業務を頼むことはできない」といわれ、納品業務をはじめとした社用車を利用しての業務を禁じられてしまいました。そして退職前には医療提供情報を基に自家用車での通勤を禁止させられることに。
最初の頃は嫌々でしたが、悪くはないかなと感じていました。

それだけでなくこれまでの日々の業務態度(業務中、集中が切れて無関係なことをしていたり)が悪く、自発性(当時、退職した人の跡継ぎで忙しそうなところ手伝わなかったりしたことなど)、が無かったり、売上などの処理ミスが続き、厳しく叱責される日々が続きました。
さらに引き継がせようとした仕事が遅く、報連相がなかったりと上司から「何をしているんだ君は」と無能の烙印を付けられることになりました。

その後、これ以上、耐えられない可能性があるとして休職を申し出ようとしましたが、思いふみととどまり、一転、休職を取り消そうとしましたが、上司から再び「お前は社会常識がなさすぎる」と一喝。
最終的に、「これまでの業務態度や問題行動をどう責任取る?」と問いかけられ「これはきっと辞めさせられる方向だ」と察しながらも抗うためにも「態度を改め処罰があるならその処罰をしっかり受けます」と答えましたが、「違う。そうじゃないだろ。」と反省の意を一瞥してきました。
もうこれはだめか・・・と降参し、「退職しろということですか」と問うと「そういうことだ。君にはこの職場は向いていない。やめてもう少し身に遭ったところへ行きなさい」と退職勧奨を受けたのでした。

先述の退職した人がいなくなった後、その人のデスクの位置に移動させられたのである程度、叱責が続いたあとにきっとこれはもしかして…と思いながらの日々でした。

業務と無関係なことをしていたことや自発性や協調性に欠け、部署内から反感を買われたことはこれもこれで自爆行為。
しかし、先述のいじめや過干渉などに遭い、トラウマを引き起こし、自発性や積極さ、コミュニケーションが失われたのは事実。しかし、過去のことなんて話しても誰も受け入れてくれなかったのでした。

そして今は障害者手帳を取得し、障害者雇用の下で働いているという状況です。

借金と信用事故

職を転々としているわけですが、だいたいはメンタルがボロボロにさせられたがために辞めざるを得ないというのがほとんど。
長くても新卒で働いた会社が1年半くらい。他は(といいつつも2社)頑張っても1年くらいでした。
特に2社目から3社目の転職期間は1年半もかかり資金面としても非常に厳しいものでした。

2社目の転職初期のころに生活資金が不足していたため銀行から融資を受けていました、その返済をしながら働いていたわけですが、その会社でもうつを発症させてしまい、あっけなく退職。
ローンの返済もその先は雇用保険の給付金でなんとか凌いでいましたが、コロナ禍や就職先が決まらないこともあって資金が底をつき始めたのです。
借りたからには返さなきゃいけないのは分かっているのですが、アルバイトするにも転職活動の融通は利かないし、けれども働かないと生きるのも厳しい。。。

単発アルバイトという手段が思いつくまでは必死に正社員としての職先を探さないといけないという概念にとらわれていました。
その結果、都内や関東近県にも就職先を探し始め、応募し面接に行くも毎度落とされ、さらに苦しい展開となりました。。
そう。クレジットカードの返済にも間に合わなくなってしまったのです。
これまでは失業手当とローンで何とか返済が続けられたのですが、ついには融資も止まり返済ができなくなってしまったのです。
そしてカードも強制解約。すなわちブラックリスト入り。

新規にローンやクレジットカードが作れなくなってしまったのです。
実際複数枚あったのでアルバイトが決まってからは何とかできていたのですが、面接があるたび都内や関東近県に向かう交通費の出費がかさみ、そのほかのカードも同様に返済が渋り、強制解約となってしまったのです。
最終的には全部強制解約となってしまい、現状作ることはできません。

必要な経費だからこそ使っているものの収入が少ないことや余計な出費が自爆行為となり信用事故にも繋がってしまいました。

やっとカードの返済は完了しましたが、未だにローンは返済できていないのが現状。返さなきゃのタイミングで家賃更新や車検、そのほかの払込などで返済する資金が消えていくという始末です…

そのせいもあって貯蓄も全くできていません。
なぜお金に対する運がないんでしょうか…

それでも救われない人生

これまでの不幸や不遇を痛み分けしても誰も分かち合ってもらえず救いの手を差し伸べる人はほぼいませんでした。

前職でも、「認めてもらうなんて自分が努力しての結果でしょう。何もしていないのに認めてもらおうだなんてそれはおかしいよ。違うか?」と一瞥。
確かにそれは正論。
本来は努力して認められるんだよね…と心の中で思いました。

自分は過去のことから受け入れてくれた、認めてくれた人なんて誰もいなかったし、結局努力しても報われない体質(すなわち努力不足か人の倍以上を努力しないと駄目なヤツ)でした。

常に存在やら努力を否定され、人格否定、いや存在否定された挙句仲間外れ。周囲は見て見ぬふりか加担。さらに、できたらすごいはずのことをそれはできて当然だという環境下で育ってきたため、受け入れてもらうことや褒められるということにはまったく慣れていなかったが故、どうすればいいかもわからない。

これだけ不遇な人生ならばこのまま人生は不遇なままなんだろうと。
誰も受け入れてくれないならいっそのこと孤独で誰ともかかわらず孤独で死んでいったほうがいいんじゃないかと思うばかりです。

それでもなぜ今を生きているのか

辛いこと多すぎて実際いつ命を絶とうと思ってもおかしくない状態。
正直障害者であれば無能で世の中から嫌われているならいなくなったほうが周りの幸せのためだよね。と常に心の中で思っています。
それでもなぜ生きようとしているのか。
とくに楽しみがあるとか明るい未来を期待しているわけではありません。

「自ら命を絶つ」ということに恐怖を覚えているからです。
電車に飛び込んだり、高所から身を投げたりすることに怯えているからです。感心することではないですが、よくああいうところから身投げできるよね…と思うものです。
しかもああいうところでやってしまうと下手をすれば親にさらに迷惑をかけてしまう可能性がありますからね…

そうならないためにも急病や交通事故、自然災害で突然死したり、通り魔や強盗傷害などで○害されて被害者となって○んだ方がマシ。むしろ「死」を待っているほうです。
○ぬというのであれば他人に迷惑を掛けない方法で○ぬのが理想です。
まあ、本来なら明日を生きたかった人のためにもこの心臓をあげたいくらいではありますが…

いつあの世へ行くのかは分かりませんが、それまで待つしかないのです。
そう。人生が好転しない限りは。

理想の人生は?

不幸事ばっかり語っていると「じゃあ求める人生はどういうもんなのよ」と思う人もいると思います。

極論、これまで経験してきた辛いことがもう二度と起こらない人生です。

もちろん愛される人がいて、好きな人といつまでも幸せに過ごし、金銭でも困らない人生です。

もちろん色んな人から受け入れられて愛される人生とか転職するにも十分な資金がある状態で挑みたい訳です。

ポジティブにいればなんとかなるのかと思いますが、それに好転させるには一生不幸事が起こらないこと、そして救いの手を差し伸べてくれる人と出会って…

そうでなければ多分いつまでも辛い人生なんじゃないかなと。


長々とこれまでの辛い生き様を書いていきました。
もし、同じ人生を歩んでいて共感してくれる人がいれば…思います。

そしてそれを悪用しないで手を差し伸べてくれる人がいたら…と思います。


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