次はいつ来る?
旅行は好きじゃない。だって方向音痴だ。自分の街ですら同行者に道先案内を委ねるのに、知らない土地だと迷子にならないように、常に気を張っていなければならない。誰かと行く旅行であれば相手への依存度が高くなり過ぎて申し訳なくなるし、一人旅では半べそをかきながら無事に帰れることだけで頭のなかをいっぱいにすることになる。そもそも計画やパッキングといった旅支度自体が億劫で、出発の数日前から直前まで、とても憂鬱な気分になってしまう。
そんな僕も学生のときは友だちと建築旅行に割とよく出掛けた。国内外の有名建築や都市を観てまわるのだけど、あれは観光というより、修行だ。決まった日程のなかでなるべく多くの建物を巡られるように組んだ行程に従って、閉館時間の迫った公共施設に向かって走ることもざらだった。アメリカ東海岸に行ったときは、出発の二週間前に足の指を骨折したけれど、ギプスを巻いて予定どおり歩き回った。歩き過ぎて日程の最後のほうでギプスは真二つに割れてしまった。
二十代のころから僕のなかで旅行とはこういうものだ。今でもどこかに出掛けるときは、まずその土地にある建築や街の興味深いところを検索する。
大学院の修士課程を卒業して建築設計事務所に就職した。独身寮は4LDKの分譲マンションを最大四人でシェアするというものだった。
一年目は幸運なことに独りだったが、二年目からは後輩と二人で暮らすことになった。三年目あたりでどうにも息が詰まってしまった。たまに徹夜もするような忙しさのなか、会社にいる時間が長いうえに帰っても同僚とリビングや水廻りで顔を合わせる。
「このままでは建築のことがきらいになってしまう」そう思った。こんな寮に住まわせる会社にはすでに嫌気がさしていたけれど。
会社から来月の夏期特別休暇を何日に取得するかを申請しろと連絡がきた。担当していた仕事もちょうどきりが良さそうだし、この特別休暇に溜まっていた有休を数日たして一週間の休みを取り、どこか遠くへ行くことにした。独りで、建築を観ない、いつもとは違う旅にしよう。
どこに行くかを早急に決めなければならない。目障りな現代建築がなく、日本人旅行客があまりいないところがいい。もちろん一週間の日程に収まる場所。なんとなくモルディヴ、スリランカ、ブータンが浮かんだ。調べるとスリランカはモルディヴ経由で行くらしい。しかしどちらとも少し前の津波被害からの復興中とのことだった。ブータンに決めた。
ブータン観光では必ず専属のガイドをつけなければならず、現地の旅行代理店との事前やり取りを開始した。二週間弱で経由地バンコクでの宿も確保して、バタバタと準備が整った。出発前のあの憂鬱は感じなかった。時間的なゆとりがなかったからだろうか。
ブータン王国はヒマラヤ山脈南嶺に位置していて、国土内の標高差が七千メートルを超える。唯一の国際空港であるパロ空港は標高二千メートルを超える位置にあり、周辺を高い山に囲まれている。離着陸にはパイロットに高度な技術が要求されるらしい。小刻みに左右に旋回しながら高度を下げていく。窓の外に山肌が見えてから着陸するまでの時間がかなり長く感じられた。
エアバスは山岳間を潜航し、ブータン・パロに無事接地する
空港でブータン人女性ガイドとネパール人男性ドライバーと落ち合った。彼らが全行程に同行してくれることになる。原則的には事前に決めたスケジュールに従わなければならないけれど、 行きたいところなどがあれば割と融通は利くので言ってくれとのことだった。若い世代は英語教育を受けていて、ガイドとは英語でコミュニケーションが取れた。
各地の寺院やゾンと呼ばれる要塞のような庁舎を巡り、マニ車を回したり、五体投地を捧げたりした。五体投地は、まさに観光客がする見様見真似のものでしかなかったけれど、字のごとく身体を大地に投げ出すという行為を繰り返すうちに、普段は意識しない信仰心が揺り動かされていく気持ちがした。標高三千メートルの断崖に張り付くように建てられたタクツァン僧院へのトレッキングでも信仰の身体性を思った。
専属のガイドと寺を巡りゆく五体投地に信心孵る天空のタクツァン寺への山岳行 スニーカーに載る身体/信仰
最後の二泊はファームステイを希望していた。それまでに宿泊したホテルにはシャワーがありトイレも水洗だったが、農家のお風呂は二つに仕切られた四角い木製の桶に水を張り、仕切りの片方に熱した大きめの石を入れてお湯をつくる方式だった。シャワーはなくトイレは汲み取り式だったが、現地の人の生活に触れることができてうれしかった。
祖父母世帯から孫世帯までの大家族が揃う食卓に招かれて歓迎された。ドマという木の実を胡椒の葉っぱで包み、石灰ペーストをつけて噛む嗜好品が煙草のように愛されていて、二回ほど試させてもらった。覚醒作用があるらしく、噛んでいる人たちの表情からして煙草と同じような中毒性があることが伺えた。
ブータンは長く鎖国政策をとっていた。自国の文化を守る政策は今も続いていて、人々はみんな和服に似た民族衣装を着ている。自動車はそれなりに走っているけれど、首都ティンプーの街にも信号機はなく、道路に寝転んだ野良犬を車が避けて通るようなおおらかさがある。それでいて携帯電話が普及し、インターネットも利用されているから、とても不思議な空気があった。
農家には高校生の娘さんがいて、携帯電話でマイケルのMTVアワードの伝説的パフォーマンスがすごいのだと言って観せてくれた。学校がない時間は彼女が僕の相手をしてくれた。近所を案内して記念写真を撮ってくれたり、早朝、僕が寝ている部屋に来て、くるくる廻りながら制服姿を披露してくれたりした。
ドマという覚醒物を噛みながらMJを観る農家の歓待
農家での最後の晩ごはんの時、みなさんに「お世話になりました。また来ます」と挨拶をしたら、「次はいつ来る?」と訊かれた。
もちろんまた来たいとは思っていたけれど、そう簡単には来られないだろうということもわかっていたから、つまり「また来ます」はほとんど社交辞令だった。もしかしたらそれに対する「次はいつ来るの?」も挨拶の定型なのかもしれないけれど、異邦人が感じたブータンの純朴さのなかにあって、それは肌の温もりを持った言葉だった。結局、いつまた来られるか返事ができないまま別れ、未だに再訪できないまま六年が経とうとしている。
「また来る」と云えば「いつか?」と返されて農家の娘の瞳に映る
初出:『モウカラ不動産 vol.01』(2016.04.30) ※一部改作・再編集