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母の家出

 南東向きの窓があるリビングから、ダイニング、キッチンと続く分譲マンションの一室、リビングとダイニングの間には間仕切りとしてカップボードが置かれている。電話台はそのカップボードのすぐ裏、ダイニング側にあるので、晴天の午後二時前だというのに薄暗い。冷房のために締め切った部屋に微かに届く蝉の声がその暗がりを強調していた。
「長崎行きの高速バスに空きはありますか? ええ、今日の便、大人と子どもひとりずつです」 暗さのせいか、見上げる母の表情は判然としない。
 母は長崎県五島列島の生まれであり、祖父母は現在でも福江で農業を営んでいる。夏には大玉の西瓜を毎年送ってくれるし、たまに帰省すれば、トラクターのハンドルを握らせてくれたり、ジャガイモ掘りを手伝わせてくれたりする。また、母屋と連続して牛小屋があり、そこには母や叔母たちの名前がつけられた肉牛が数頭いる。その大きな躯体と静かな眼は、なぜか決まってぼくを神妙な心持ちにさせた。離島のそういった非日常感を、ぼくはとても気に入っていた。
 今、家には母とぼく以外だれもいない。朝起きたときにはすでに、父、三歳うえの姉、年子の兄はどこかへと出掛けたあとだった。よくよく考えてみれば妙だ。母とふたりで遠出するなんて今までに一度もなかった。先ほどから表情が読み取れない母に促されて出掛ける支度を始めたが、じいちゃんちに行けるといううれしさはとりあえず表に出さないでおこうと思った。

 高速バス乗り場は都市高インターの出口ランプと入口ランプのちょうど中間にある。家から路線バスで向かった。そこは市街地から少しだけ離れていて、都市高下の国道は普通車よりもバスやトラックの通る割合が高かった。高架が作る斜めの陰に、背の低いぼくだけがすっぽりと収まっていた。
 日傘をさして立っていた母がおもむろにしゃがみ、ぼくを振り向かせてじっと顔を覗き込んでから、ハンカチに唾をつけてぼくの目頭についた目ヤニを拭った。ひんやりと湿った布が左目から右目へと移った。そして満足そうな顔をして再び立ち上がり、日傘の陰のなかへと戻った。
 ぼくは車酔いしやすいので、乗車の少し前に酔い止めの薬を飲んでいた。座席も、揺れが少ないからと、たまたま空いていた運転手のすぐ後ろを母が確保した。運転手の左足と左手が連携して動くと、それに合わせてバスのエンジン音とスピードが変化することをおもしろがって眺めているうちに眠ってしまったらしい。起こされたときにはバスは停車しており、「着いたから降りるよ」と母は言った。
 五島列島に渡るためには長崎市の港から出ているフェリーに乗る必要がある。五島に行くときくらいしか船に乗る機会はないので、ぼくはこの船旅も楽しみにしていた。前に行ったときは、フェリーの甲板で潮風を浴びながら父とカップラーメンを食べた。普段、ジャンクフードの類いはなかなか食べさせてもらえないこともあって、あのおいしさは格別のものとして鮮明に記憶されている。
 しかし、母はなぜか港へとは向かわずに、繁華街のなかにある喫茶店へと入っていった。

 喫茶店は客も少なく、閑散としていた。母はコーヒー、ぼくはオレンジジュースを注文し、それを待っていると、カランコロンと入口の扉の鐘が鳴り、女性がひとり入店してきた。彼女が入口あたりにとどまって店内を見渡そうとしたところで「アヤコ! こっち」と不意に母が大きな声で呼びかけたので、ぼくはとても驚いた。
 母は島内の高校を卒業後、父と結婚するまでは長崎市に出て自活していたらしく、アヤコさんはそのときの職場の同僚だと教えられた。「ちょっと電話をしてくる」と母が携帯電話を手に席を外している間に、「この街で相太くんのお父さんが働いていて、そのお店にお母さんがお客さんとして行ったのが、ふたりの初めての出会いだったのよ」と内緒話をするようにアヤコさんは教えてくれた。電話から戻って席に着いた母は、アヤコさんと取りとめのない思い出話をはじめたが、ぼくはその内容には気をとめずに、(どうして女の人って家族以外としゃべるとき声が高くなるんだろう)というようなことを考えていた。

 喫茶店の外でアヤコさんと別れ、ぼくたちはちいさな川沿いを歩きだした。並んで歩きながら「あの通りをもっと行ったところに住んでた」「あそこのお店のご主人が変な人だった」というようなことを話してくれた。
 日も暮れかかったころ、一軒の古いイタリアンレストランに着いた。母に続いて入店したところで、店内から「おう!」と声がした。びっくりして母越しに声のするほうを伺うと、なぜか父と姉、兄がテーブル席に座ってこちらに向かって手を挙げていた。困惑しているぼくの手を引いて、母は店の奥の方へと歩き出した。
 この奇妙な状況の説明は一切されないままに、家族は長崎でひとつのテーブルに揃った。ぼくたち姉弟は目配せをして、今いろいろと訊くのはよしておこうと、無言のままに合意した。そして、まるで地元でするいつもの外食のときのような時間が始まったが、なんとなく母も父も大げさに「楽しい」ということを確かめあっているようで、それだけが普段とは違っていた。
 店員が注文していたピザをテーブルに置いた。父が卓上に備えられていたタバスコの小瓶を手にとって母に差し出し、「ほら。かけ過ぎても店員を呼んで辛いってクレームをつけたら駄目だぞ」と、少しいたずらっぽい口調で言った。母は「やっぱりその話をするのね」とうれしそうに応えながらタバスコを受け取り、ピザに少しだけ振りかけた。目尻の笑い皺には、ほんの少しだけ涙がとどまっていた。


タバスコの赤い涙に濡らされたマルゲリータのぽろぽろ痛い


初出:『モウカラ不動産 vol.02』(2016.08.13) ※一部改作・再編集
イラスト:Yanami Tae

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那須ジョン
「蝉時雨」みたいな言葉を発明するまで続けるよ。