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空き地に人間向けの窓はない

 フジモトさんはどの路地にもいた。うちを出て目的地への最短ルートを進むときであろうと、進む道を適当に決める日課の散歩のときであろうと、本当にしょっちゅう、そこかしこで遭遇した。(今日はフジモトさんいなかったな)と思えるような、家から割と遠ざかったところで、背後から不意に明るい声に呼び止められる。振り返るとやはりフジモトさんだった。

 この町は死刑宣告を受けている。元々は終戦直後の混乱のなか、大陸から引き揚げてくる多くの人を受け入れるため、公有地が宅地として貸し出されたのだ。つまり、借りている土地に個人所有の家が建っているという形である。なるべく多くの住居を確保するために、間口の狭い長屋が多く建ち並ぶことになった。

 僕はそんな町なかにある路地の行き止まりに建つ安アパートの一室を借りて暮らしている。 敷地は長屋4軒ほどをまとめてひとつのアパートに建て替えたのだろうと思われる程度の大きさだった。引っ越してきた初日にフジモトさんに声を掛けられた。
「あらお久しぶり! みかけなかったけど元気だった? また時間があるときに勉強会に顔を出してね」
 突然のことに僕が面食らっていると、フジモトさんは自らの間違いにすぐ気がついた。
「あらやだ、ごめんなさいね! あなたに似た人をおばちゃんよく知ってて、その人が住んでいる辺りからあなたが出てきたから勘違いしちゃった」
「あのアパートに越してきたの? わたし、この家に住んでいるフジモトといいます。仲良くしましょうね」

 フジモトさんが暮らす長屋は町のなかでも間口が狭いほうで、向かって左から片開き戸・引違い戸・引違い小窓がほとんど隙間なく並んでいて、小窓の下の壁には給湯器、その下の地面にはガスおよび水道のメーターが配されている。片開き戸は大抵開け放たれていて、二階へと上がる狭くて急な階段がいつも見えていた。そして、メーター類と引違い戸の半分を塞ぐようにして、フジモトさんの深紅のママチャリは置かれる。路地で会うフジモトさんはいつもこの自転車を連れている。つまり、家の前に自転車が停まっていれば路地でフジモトさんに会うことはなく、逆に自転車がなければ、後ですぐに彼女と遭遇することになる。

 30年ほど前に行政はこの町全体を風致地区に指定して、新築はもちろんのこと、大幅な増改築も原則として禁止した。重要な埋蔵文化財が地下に眠っている可能性が非常に高いため、将来的にはこの一帯を大規模に掘り返すということであるが、やはりその真の目的は所有地の完全な奪還なのだろう。
 まずは所有者が曖昧になっている空き家から取り壊された。更地には人の侵入を防止するような柵などは設けられず、ただ違法駐車を阻止するためと思われる大きめの縁石が、一定の間隔を空けて数個並べられた。県の委託を受けた業者がたまにやってきて簡単な雑草除去と清掃をしている。家はそれまで長いこと寄り添っていた隣を失い、まるで無防備な自分の横腹を晒すことになる。そういう光景を増やしながら、町は櫛の歯が欠けていくように徐々に低密度となり、何世代にも渡るほどの長い時間をかけてゆっくりと死んでいく。

「あらオダさん、こんにちは! 今日はお仕事、お休みなの?」
 フジモトさんの自転車のハンドルには傘を保持するための部品が付いている。昔テレビ番組でみた大阪のおばちゃんのママチャリに付いていたあれだ。彼女もテレビであの傘ホルダーを知って、購入したのかもしれない。雨上がり、家の前に置かれた自転車は、畳んだ状態の傘を持たされていることが多かった。
「やだよく気づいたわね! ほら、うちって狭いじゃない? だからああやって乾かしてるのよ」
 フジモトさんは僕が訊かなくてもなんでも話してくれた。病気の話題になれば、自身が何年も前に躁うつ病に罹り、だいぶ良くなったけれど今も薬を飲んでいると告げたし、僕の年齢を訊いた後には、彼女の次男が僕のひとつ下で、グレていた時期があったけど今は真面目に働いているだとか、長男は自動車工場勤めで離れて暮らしており、長女は市内の大学病院に勤務する看護師で、近いからよく帰ってくるというようなことまで、あわせて教えてくれた。

 一昨年、フジモトさんの隣家が取り壊された。その家は角地に建っていて、間口が他の3倍くらいある庭付きだったが、家屋がほとんど見えないくらいに草木が生い茂り、人が住んでいる気配はずっとなかった。建築物の解体と樹木の撤去はあっという間に済んで、隣家と接していたために仕上げがなく剥き出しになったフジモトさんの家の側面も、トタン板できれいに補修された。

 最後にフジモトさんに会ったのは、家からだいぶ離れた路上だった。
「オダさーん! ああ、やっぱりオダさんだわ」
 背後から大きな声で呼び止められて振り向くと、彼女は減速しながらママチャリを降り、ちょうど僕の隣につけるところだった。
「お疲れ様。今帰り? わたしは今から自転車で、隣町で開かれる勉強会に行くところなの。オダさんも時間があるときに来てみてね。とても良いお話が聴けるのよ」

 仕事の都合で3ヶ月ほど家を空けて大阪に滞在していた。大阪での最終日はトラブルが発生して慌ただしくなり、予定されていた送別会もなくなってしまった。最後の新幹線の時間が近づいてきたところで、「埋め合わせはいつかするから」と粗雑に送り出され、こちらに帰ってきたのはちょうど日付が変わるころだった。ほとんど街灯のない暗い路地を、しかし例え目を瞑って歩いたとしても問題ないと思えるほどの安心感を持って家へと向かっていたが、不意に、よく似てはいるけれど違う町に来てしまったのではないか、という不安を覚えた。
 角の空き地が大きくなっているように感じたのだ。
 一瞬混乱したのちに、冷静になってちゃんと観察したところ、空き地はやはり大きくなっていた。正確に言うと、フジモトさんの家がなくなっていた。
 その夜は半ば信じられない心持ちでアパートまで帰った。次の日の朝、出社するときにもう一度確かめてみたがやはりフジモトさんの家は、当然だが彼女ごと、跡形もなく消えていた。
 この町で僕に話し掛けて余計なことまで教えてくれる人はひとりもいなくなってしまったため、フジモトさんの消息は今でもわからないままだ。角の空き地にはセイタカアワダチソウが、雨上がりにあのママチャリが持たされていた傘のように生えている。


空き地には人間向けの窓はなく青天井から覗くかみさま


初出:『モウカラ不動産 vol.03』(2016.10.31) ※改題・改作・再編集済み

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那須ジョン
「蝉時雨」みたいな言葉を発明するまで続けるよ。