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講演会でリカバリーストーリー話したら大喝采&褒めちぎられた話

私のリカバリーストーリー

数年前に就労継続支援B型事業所でピアの立場で講師を目指していた時の話です。
障害福祉サービスは税金で賄われているため、行政の枠組みでしか支援を行えません。
しかし、それでは精神障害者の地域移行が進まないと、私が携わっていた法人は「リカバリーカレッジ」というイギリスのNHSが推進している取り組みを日本で行っていました。

現在日本には10近いリカバリーカレッジがありますが、どれも障害福祉サービスの枠組みでの取組ではありません(一部活用している法人もある)。日本財団などから助成金をもらって手弁当で運営しているところがほとんどです。

私が呼ばれた講演会は、リカバリーカレッジの新規立ち上げイベントに際して行われたもので、その界隈の第一人者の大学教授2人とリカバリーカレッジの運営者、そして運営に携わる当事者として私が呼ばれたわけです。

その時の謝礼が2日で2万5千円!!
1日目は講演会、2日目は勉強会という構成でしたが、私が話したのは1日目の講演会の最後5分ほど(予定では20分だったけど、前の人たちの話が押した)。
ホテルまで手配してくださりましたが、こんなふかふかな絨毯ふんだことない!!(それまで自分が泊まった中では1泊1万が最高だった)

その時は生活保護を受給していたため、超過分の1万円は扶助費から減額されたのですが、なんか知らない世界を知ってしまったような体験でした。

今回はその講演で話す予定だった台本を公開し、私のリカバリーストーリーとさせていただきます(実際は時間がなかったので台本ガン無視で話しました)。

あれからもう数年経っているので立場もいろんなことも変わっています。しかし、一から書き直そうと思って半年経ち、その間私のリカバリーストーリーを必要としている人に多く触れてきたのでひとまず暫定版として公開します(加筆修正あり)。

今日は私がどのように障害福祉サービスを利用しているのか、 障害福祉サービスを利用して生活がどのように変わったのかをお話させていただきます。個人的な体験を話しますので、気分を害される方がいらっしゃるかもしれません。その場合、遠慮なく席を外してもらって結構です。落ち着いたら、また戻ってきてくれると嬉しいです。また、メモを取りたい方は取っていただいて構いません。

 

幼い頃からの不適応感


私は辺鄙な山間の集落の出身です。人口2千人の小さな町で、中学校の全校生徒は50人。最寄駅からバスで30分800円。通学時間帯以外のバスは3時間に1本という土地柄です。
高校生以上の大人は日中目にせず、いるのは子どもと親と高齢者だけ。高校生から社会人にかけてのロールモデルが教師と親くらいという環境で育ちました。

私は幼い頃から様々な違和感や不適応感を抱えていました。家庭の中では夫婦喧嘩や嫁姑の争いを毎日のように見させられました。両親に悩み事を相談しても過剰反応され、自分の話をまともに聞いてもらえず勝手に話が進んでいきました。
そんなことを何回も経験し、両親に何か相談することはできないと判断し、自分一人で抱え込む性格になっていきました。また、自由に生きていいといわれながら、親の意向にそぐわないことをすると嫌味を言われ、窮屈に感じていました。

 小学1年生の終わりに地域の野球チームに入りました。
その時は3連休で練習も3日続けてありましたが、母親から「3日目は疲れてるだろうから休もうか」との言葉に素直にうなずき練習を休みました。
しかし3連休が明けて登校すると、チームの上級生から「サボり魔」「仮病」などと言われました。彼らにとっては練習がある日は来るのが当然だったようです。

当時小学1年生の私にとって、非常にショッキングな出来事でした。親に勧められて休んだのに、なんでそんなこと言われなければならないのか。

「サボり魔」「仮病」と言われることは日常と化していきました。それ以降の2年間、土日の練習日になると腹痛や頭痛に襲われ、ほとんど練習に参加することができませんでした。それらを訴えても「気のせいだ」「甘えている」「怠けている」だのと言われ、相談することさえ憚られる幼少期を過ごしていました。
また辺鄙な集落という地理的条件もあり、地域に逃げ場がなく常に監視されているように感じていました。
周りから見ると普通に生活しているように見えても内面はぼろぼろ、常に閉塞感や圧迫感で押しつぶされそうな苦しい思いを長期間、抱えていました。

 また、難聴はないのに聞き取りが困難な症状もありました。よく「人の話を聞いていない」「説明したのになんで違うことをするのか」と言われました。
これは大学5年生の時に気付いたのですが、高校までの自分は板書と教科書と宿題のみで授業内容を理解していたみたいです。先生の話は耳に残っていませんでした。
そのため大学では苦しみました。教科書通りに授業が進まない、板書がない。
こうした聞き取り困難はコミュニケーションの困難さにもつながり、短気な気性もあいまって友人とのトラブルが絶えませんでした。

発達障害と診断されて

そうした背景もあり、地元でこれ以上暮らしていくのは無理だと考えざるを得ませんでした。そこで高校は県内屈指の進学校の合格を勝ち取り、県庁所在地で一人暮らしを経験しました。
しかし、つらさや苦しさをそのまま話せる人ができませんでした。
また大学生になると、登校拒否に陥り、寮生活でも友人としょっちゅう衝突を繰り返しました。その後いろんなことがあり、体が動かなくなりました。
友人の説得もあり心療内科に行きましたが、初診でうつ病と診断され、学業やプライベートの活動を含む一切の活動をやめて静養するよう言われました。
その時に感じたのは絶望ではなく、「休んでいいんだ……」という安堵感でした。

結局一年半療養を続け、大学4年次相当の秋学期から本格的に学業に復帰しました。学業に就活、論文執筆とフル稼働していましたが、春休みに再びダウンしてしまいました。
その時は就活のため帰省しており、紹介状なしで高校の校医だったドクターのいる精神科にかかりました。

これが最初のターニングポイントでした。


受診するなり、「発達障害の検査してみようか」と告げられました。
大学では教育学部で発達心理学を学んでおり、発達障害の知識はありましたが、まさか自分が検査されるなんて思いもしませんでした。
WAIS-Ⅲを受けた結果を主治医に見せてもらいましたが、「こんな凸凹は初めて見た。良く生きていたね」と言われました。

それもそのはず。
一番数字のよい言語理解と一番数字の悪い知覚統合の差が50もあったのです。WAIS‐Ⅲの標準偏差が15ということから、どれだけアンバランスなのかがよくわかります。
ただ、その当時は(高校時代も地理は偏差値80だったけど物理で偏差値35とったことあるからそんな感じか)としか思っていませんでした。

問診も行い、無事(!?)発達障害と診断されました。
発達障害と診断されてかは、相談できるところに相談しに行きました。
まず大学の就職支援課と学生相談室に行きました。

就職支援課からはハローワークに行くよう提案され、障害援助部門の担当者と今後の就職活動についての相談を月1のペースで進めていきました。
障碍者職業開発センターともつないでもらい、結論としては「大学ではまず卒業を最優先にして、就活は卒業してから始める」方向性に至りました。

学生相談室では、臨床心理士とのカウンセリングの中で徹底的に認知行動療法とマインドフルネスに取り組みました。認知行動療法に取り組むことで、自動的に行ってしまう思考や言動を意識することが出来、落ち着いて適切な行動を選択できるようになりました。マインドフルネスに取り組むことで、どんな時でもいい感じの自分を意識的に取り戻せるようになりました。

これはフリー素材で公開されているコウペンちゃん

フレッシュマンの苦しみ

大学卒業後は障害者雇用でのハローワークでの事務補助員を経験した後、一般雇用で市役所に入庁しました。与えられた業務は、補助金の交付業務、他の職員の補助業務、予算管理や書類管理などの雑用でした。
ハローワークの方達からは、無理さえしなければどこに行っても大丈夫だと太鼓判を押されていました。

しかし、市役所では無理をせざるを負えない状況に陥りました
まず周りの職員が月100時間前後の残業を毎月していたため、頼ることができませんでした。だから引継ぎや指導も雑で、音声での情報認識が苦手な私にとっては何一つ理解できないまま業務に当たらざるを得ませんでした。
また他の職員から聞いた話ですが、直属の上司から振られた補助金交付業務は上司ですら回せなかった仕事量で、本来上司がしていなければならない仕事まで私に投げられているとのことでした。
そうした環境で仕事の効率が上がるわけもなくミスも多発し、「これだからゆとりは」など聞こえよがしの陰口を言われていました。

 

1つ転機となったできごとがあります。
ストラテラを処方されたことです。

ストラテラを処方された翌日、頭の中でシーンとする音が聞こえました。
その状態で仕事をすると、今まで全く減らなかったケアレスミスが大きく減り、業務効率が嘘のように上がりました。
恐らく、ストラテラ服用前までは頭の中の雑音に気を取られて仕事に集中できていなかったのだと思います。
その後はバリバリ仕事ができるようになり、周囲の評価も自ずと上がっていきました。

しかし、順風満帆な社会人生活もつかの間、新しい仕事を振られることになり、その負担で適応障害を発してしまいました。
職場も地域も家庭も、自分を襲ってくるように思えました。
自分の脈拍までもが「死ね死ね死ね」と言っているように聞こえました

このままでは死んでしまうか誰かを殺してしまうかもしれない。そう思った自分は、県外の大学にいる弟の元に身を寄せました。
すると今までの症状が嘘のように消え、普通に生活できるようになりました。地元と弟の家を数週間おきに往復する中で、地元では症状が出て東京では症状がでないことに気が付きました。
そこで市役所を退職し、貯めていた貯金を当てに、仕事も決まってないまま卒業直前の弟のアパートへ逃げ出しました。

 働かないことを頑張る

地元を飛び出し症状が軽くなったといっても、週に1日動いたら6日間は寝たきりの生活が続いていました。
ただ実家にいた時は生きているだけで消耗していましたが、東京では回復できていたのが大きかったです。
一方で「もし仕事決まったら週5日フルタイムで働ける」と思い込んで仕事を探していました。

週1日しか動けないのに。

それを3週に1回面談してくれていたハローワークの精神障害トータルサポーターの方に見破られ、こう言われました。
今は働くことを考えるのをやめなさい。日常生活を整えるのが先だよ」と。


同じ時期に通院先の主治医からこういわれました。
「今まで起きてきた悪いことはすべてあなたのせいではない。だから過去のことで悔やむ必要はない。これからは、これからどうやって生きていくかだけ考えて生きていきなさい」。

この2つの言葉は私の人生を大きく変えてくれました。

それまではがむしゃらに頑張ることだけが、自身を肯定してくれるものでした。
しかし、2人の専門家から、頑張らなくていい、過去に囚われなくていいと言われ、それまで抱えていた「倒れるまで頑張り続けなければならない」という呪いから解放されました。
しかし心が解放されたといっても、体はそう簡単に染みついた行動パターンを変えることはできません。
そこで、学びを軸に据えている生活訓練施設を見学してみてはどうかと精神障害トータルサポーターの方から紹介され、生活訓練施設を運営している法人が開催しているリカバリーカレッジの講座に参加してみることにしました。

 

カレッジの講座は雰囲気が温かく、障害の有無に関係なく、みんなで学びを深めることができたのが楽しかったです。
同時に、健常者の方と触れ合う中で、今の自分では一人で社会の中でやっていけないと実感させられました。そうして、施設を利用することに決めました。

こっちはフリーで公開されている邪エナガさん

生活訓練を受ける

施設では大まかな目標として次の3点の目標を立てました。

  1. 一人で暮らしていける環境を創る

  2. 日常生活の中でほっとできる体制を作る

  3. 定期的に施設に通えるようになる

そこでまず問題になったことは、怒りの感情に対する対処です。
施設の朝ミーティング等の普通の会話をクラッシャーしてしまうことが頻繁にありました。
例えば公務員批判をする人がいたらそれにかみついて相手を罵倒したり、講座の中での対話で批判されていると感じたらそれに言い返したりしてしまっていました。
それがほぼ毎日起きていました。だから自然と周りとの人間関係も悪くなってきます。

その度に面談室で、どうして怒りの感情が出てしまったのか、適切な行動はどんなものだったのかを冷静に整理する時間をとってもらいました。
当時は施設に臨床心理士がいたので、毎週1回カウンセリングを受けることになりました。
最初は問題行動が起きるたびに、その行動を分析して自分が不利にならないような立ち回りの仕方を一緒に考えていきました。

怒りの感情をコントロールできるようになってからは、定期的に起きて自分の日常を壊してしまうフラッシュバックへの対応を一緒に考えてもらいました。
具体的には、フラッシュバックした内容と辛さや苦しさを臨床心理士に全て預けて、客観的に分析していくことをしていきました。
フラッシュバックが起こるたびに感情を誰かに預けることで、そのつらさを直視しなくてよくなり、フラッシュバックが起きても少しずつ日常生活を普通に遅れることができるようになり、行動できる日数が少しずつ増えていきました。

このように、フラッシュバックやトラウマから距離を取ることで自由を獲得していけました
逆に言えば、それらと少しでも接触してしまうとどん底に陥ってしまいます。
決して乗り越えたわけではありません。乗り越えるだけが解決方法じゃないことを学びました。
昔の自分は乗り越えることしか考えていませんでした。フラッシュバックを起こしたり、問題を起こしたりする度に面談を受けたりカウンセリングでのテーマにししたりすることで、抱えきれない感情を誰かにパスし、自分の負担を実質ゼロにすることができました。

 

また同時に、自分のできることとできないことを分けることに取り組みました。
例えば、どんなに強く祈ろうとも、天気を変えることは普通はできません
同じように自分の気に入らないことを言っている人を変えさせることもそう簡単にはできません
しかし当時の自分はそれができると思い込んでいて、嫌なことを言ってくる相手をどうにかしようとしてその度に怒っていました。
なので、自分が影響を及ぼせることと、関心はあるけれど影響を及ぼせられないことを分けるようにしました。

その作業をしていくと、自分が影響を及ぼすことのできることがめちゃくちゃ少なく、自分が小さく弱くなったような気がして寂しくなりました。
でも、できることだけやっていくようにすると自信がつくようになりました。
できることだけやるので成功体験が得られます。その積み重ねでできることがだんだん増えていき、できないことや自分を怒りへ誘う言動を流すことができるようになりました

それと同じように、今取り掛からないといけないことと、今考えてもどうにもならないことを分けて考えるようにしました。
頭の中で考えていることを次の3つに切り分けました。

  1. 2週間以内にしなければいけないこと

  2. 1か月以内にしなければいけないこと

  3. 1か月以上先のこと

そして1か月以上先のことは考えないように先送りしました
そうすることで、不安やプレッシャー少なくなり、目の前のことに集中できるようになりました。

そうは言っても、定期的にくる体調の波の激しさはしんどかったです。
それの対処にWRAPを使いました。

WRAPを使うことで、調子を細かく分析できるようになり、それに応じた対処法を立てられるようになりました。
調子の分析や対処法は完全に個人の自由です。
だからそのお陰で自分らしく生きられるようになり、波の激しさが和らぎ、波を利用してサーフィンできるようになりました。
たまに溺れますが、それも一つの経験だと割り切れるようになりました。

 リカバリーストーリーとの出会い

そうして、少しずつ自分らしく生活を送れるようになってきたところで、リカバリーストーリーを話してみないかと打診されました。
その時は自分なんかには無理だと思い断りましたが、ちょうどリカバリーストーリーを聞くことができる機会があると聞き、その場に参加しました。
そこで聞いたリカバリーストーリーは、赤裸々に自身の失敗談を話し、失敗続きでも何とかなるんだと感じる内容でした。

初めてリカバリーストーリーを聞くまでは、どこか高尚なことを言わなければならないと思ったり、大きな成功体験がなければならないと思ったりしていました。
でもそうではありませんでした。
自分の人生をありのまま話すことで、こんなにも感動するんだ、自分の人生に希望が持てるようになるんだ!と感じました。
そうした経験もあり、自分の人生を整理してみることにしました。
整理する中で、思い出せない空白の期間があることもわかりました。
同時にばらばらだった自分が統合されていき、整理する中でリカバリーしてきた感覚を再び味わえて気持ち良かったです。

そうした中で、自分の母校でリカバリーストーリーを話す機会がありました。
緊張しましたが、話し終えるととても大きな反響があり嬉しく思いました。
同時にたくさんの感想をいただき、それが自身へのフィードバックとなり、人によっていろんな受け止め方があることを知りました。その感じ方の多様さに自分の心が豊かになることを感じました。

それ以降、病院や生活訓練施設、講演会など様々な場所でリカバリーストーリーを話しました。
話すたびにリカバリーストーリーがブラッシュアップされ、それまで思い出せなかったことが思い出せるようになったり、悪い出来事だったとしか思えなかったことが実はよかった側面もあることを学んだりしました。
リカバリーストーリーを話すことで、自分の苦しい経験も同じような境遇の人のためになる。そう思うと、とても幸せなことをしているなあと毎回感じます。

 

今(当時)の自分

こうした活動を土台にして、放課後デイサービスでのボランティア、リカバリーカレッジたちかわ事務局での勤務を経て、当事者講師として活動をしています。また、他のNPOでの活動やリカバリーカレッジの運営委員もしています。
これまでは好き勝手にリカバリーストーリーやリカバリーについて語ってきました。
しかし講師として講座を提供するうえで、求められたことに対して適切なことを適切なタイミングで話す力が必要だと痛感しています。
そうした苦労もありながら、少しでも多くの人に希望を感じてもらえる講座を提供できたらと思います。
またWRAPファシリテーターの資格も取り、毎週WRAPクラスの開催もしています。

 

人生を振り返って

これまでの人生を振り返り、何か一つ的を搾ってチャレンジすることで、何かが得られることを学びました。
たとえそれで体調を崩しても、体調崩したこと自体が大きな経験となります。それが希望となって、自分らしい人生を歩んでいけていると思います。

繰り返しますが、私は決してすべてを乗り越えてここに立っているわけではありません。
今でも体に恐怖が染み付いていて、家族や地元、大学の友人と会うのが怖いです。
家族からの電話に出ることができないので、すべてメールでの連絡にしてもらっています。
思い出せなかったことを思い出せるようになることで、思い出すたびに耐えがたい苦痛も味わっています。

でも、自分の小さな気持ちに気付いたり物事の受け止め方を少し変えたりするだけで、人生が大きく変わりました。

自分のこだわりを手放したり、流したりすることができるようになるだけで、生きるのがとても楽になりました。

自分が執着して守っていたものがガラガラと崩れていき、なんであんなにこだわっていたのだろうと不思議に思うことがたくさんありました。

私の好きな言葉に「冬は必ず春となる」という言葉があります。
この言葉に支えられて何とか生きることを続けてこられました。
最悪の次は必ず上向きです。どん底を経験したら、その次は必ずのぼり調子になっていきます。
その調子の上がり下がりを楽しみ、一瞬一瞬の感情を味わいながら、豊かな人生を歩んでいきたいと思います。長くなりましたが、ご清聴ありがとうございました。(終わり)

(参考)
宮本2021 『共同創造のうまれる場:共同創造を目指して』


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