暴言・もっと新しい何か・凶暴で粗悪な文学

努力って大切だと思うんです。しかし、こんなことを言う人っているでしょうか? 努力が大切って当然すぎて今さらでしょうか、それとも安直な綺麗事なんでしょうか。努力が大切という言葉に特筆性がなかったとしても、前者と後者では理由が正反対なわけですから、「何を言っている」と一蹴することが案外できず、「どういうつもりで言ってるんだ? つまり、ギャグなのか皮肉なのか。それとも、もっと新しい何かなのかな?」という奇妙な問いが出るところにいるのが私なのですが、読者が同様に考える可能性は高くありません。別の人間ですから。

こんな内容を面倒臭く感じた人の「何回裏をかいてるんだ?」とかいう問いが的確かもしれません。答えは、せいぜい1.5回か2回程度です。そうです、多いです、既に。

人は普通、幼少期に素直な言葉で教育されて、その後に奇をてらってなのか、理由があるのかないのか、安直な逆説に走るのが常だと思います。作家の誰それでさえ、「僕ならその雑誌と正反対のカラーの作品を投稿する」とかいう程度の発言をして自他共に満足している具合です。

安直な言葉ってやっぱり存在します。この「安直」とかがそうです。あと、例えば偽善という言葉。あれは不思議です。まるで偽ではない善があるみたいだからです。ニヒルすぎますか? 気取ってカッコつけているだけです。本気にしないでください。善などないだなんて原始的な発想に私はとどまっていたくありません。何が言いたいかというと、大抵の言葉にはもはや特筆性がないんです。書く価値がありません。「お腹がすいた」と言うのと大差ないんです。世の大抵の文章がそうです。もちろんこの文章自体もそうです、とかわざわざ良識っぽく断らなければ伝わらない界隈に文章を投稿したくありません。だから、この文章は違いますよ。なにが「だから」なのかって? ボケです。「だから」という言葉で繋げられない文同士を無理やり斡旋しました。そういう遊びが伝わらないのがnote。(いや、どこであろうと伝わらないか......?)

(この文体でこれ以上書くの馬鹿馬鹿しいからもう終わるね。嗚呼、心が痛むよ〜。嘘だけど。)

狂犬みたいな感じで文章を書きに行きそうで、ダメだこれは...。これ以上はよくない。このアカウントでは限界がある。最初からそれ用のアカウントならまだいいけど、ここでそれをやったら「豹変した」とか、「化けの皮が剥がれた」とか思われるだろう。豹変というのは間違ってないけど、でも、文体を変えるという意味でいいのであれば、僕はしょっちゅう豹変してる。化けの皮論については、悪い側面が現れると「ほらやっぱり」的なノリでなのか、それが「本当の姿」みたいに考える思考ってあるじゃん。実際はどっちも本当なんだと思うし、善人と悪人がいるというよりは、どんな人にも善と悪の側面が潜在してて、より顕著な場合が善人とか悪人とみなされたり、みたいな感じなのかなとは思うけど、悪い面が出るとそれが「本当」みたいな思考の人もいそうで、また、そもそも悪人とか悪というものの存在を疑わないというか、そんなちょろい主観というか思考。

つまり、僕が悪人です。

「何言ってんだ」

何も言ってません。何かを言った内に入りません。

つまり、僕が善人です。

ああ、かしこまった文章を書く“ところ”に居なくなってきた。『意識の食事』とかを書いた時は、僕はまだ可愛かった。可愛かったというか、あれはまともに価値ある作品を目指していた。今回のこの記事はどうしようもない文章で、他人が読むものではとてもない。『意識の食事』とかの方が技術は高かった。健気に意匠を目指してた。しかし、そもそも、あれはありきたりな手法で、その分、実は保守的な作品だった。一見前衛文章だけど、そっちの界隈ではよくあるヤツで、むしろあれは挑戦せずに安住している方だ。嗚呼、本当は暴言吐きたくない。読者は悪くない。でも悪い読者がいる。悪い読者は普通の文章がお好みで。創造性に挑戦するよりも内容があることの方が重要なんだから、なんと立派な常識人でしょう。

文章、文章......。まだ誰にも書かれてない文章ってどんな文章? 文章でなにができるかな。文章、文章、ブツブツ。

他人の文章(プロのを含む)にいかに価値がないかを暴く行為を虚しく思うけど、そんなものをありがたがってる人が俺の文章を馬鹿にするところを見ると、これも自衛なのかな。分からせなきゃダメなのかな。でなきゃ俺が損するんだよ。君を叩かないと俺が損をする。

もうnoteで誰にも優しくしたくない。

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