自分だけが美しい

久しぶりに自分のシュール散文詩を読み直したら、傑作すぎて飛び上がりました。冗談で言ってると思いますか?本気で言っています。ハハハ。

以前は、自分の書いたものを読み返したら拙く見えるようになっていたりして、そしてそのことを我慢して、それを悟られないように、詐欺師のように何食わぬ顔で「これが作品です♪」と堂々と居直ることが作品の一部でさえあると思っていた。それは今でも思ってはいる。


自分が、作品とかいうものに何を求め、何を見出して何を見出していないか、過去の自作を読むとよくわかる。自作なわけだし。
特に、他人の目を顧みずに自分の独自の美意識や感覚を追求することに躊躇わないで振り切っている様は涙ぐましい。でも、自分だから知っている......あれらの作品は、内心では多少躊躇いながら書いて、そして恐る恐る、あるいは半ば諦めた気持ちで投稿したことを。つまり、結局は心の奥で他人の評価を期待して、なおかつ「これは客観的には価値が見出されるものではないのだろう」と、なんと(あろうことか)腐心していたのだ。かわいそう。自分が。


ところでしかし、いま、自分の文章(力)がとんでもない領域に達したというか、堕したみたい。すごい文章を書いてるw 草が生えてしまった。なんというか、この文章、まさに荒行。服を全部脱いで、その上さらに何かを脱いでいる。あなたと私は、この文章という薄明の差す地上の僻地にて、傍らの嵐だか濁流の音を静かに聞きながら、互いに裸でいるわけだが、さて、ここで一つ賭けをしよう。裸の私たちは「これ以上脱ぐことができる」か?あなたから選んで欲しい。高名なる私は残された方を選ぼう。私はいつも奇跡で満ちているのだ。


自分が書いていたものは、まさに自分しか知らない感覚に基づいて、それを満たすために書かれたものだった。誰のためでもない。自分だけのためだった。他人が読んでも、解説でもなければ、読みどころは恐らくわからないであろう(特に、どの言葉に冗談や皮肉が込められているかとか、どんな性質が必要で、そして不要であるかとか、こういった諸点について極めて個人的であるため。)これ程までに自分のために自分を振る舞わせていたのだった。なんと退廃的な生き方か(本当に)。宮崎駿が自作(風立ちぬ)を見て涙したというのは、それは、「自分の問題」を解決したからなのだろう。自分のやりたいことをやり切るというか。「なぜ他人はこういう作品を作ってくれないのだろう?作らないのだろう?ならば、自分で作るしかない」という。作品の巧拙自体は結局は他人の問題である。第三者が見てどう思うか、という。そういうもののために自分を作り替えていって、出来上がった振る舞いがいかに見栄えが良いかというのとは、ーーそれは社会的・外向的な振る舞いではあろうがーー根本的には別の問題だ。自分の問題とは。私は、世間の人が作品を作ったり、価値を作ったりするのとは逆の仕方で、あれらの散文詩を書いたのだ。私は価値を生み出したのではない。消費したのだ。ディズニーランドに行ったり、車を買ったり、ゲームをしたり、飯を食ったり。それらと同じように、それらに並列する行為として、ものを書いた。自分の問題を解決しに行ったのだ。ありがたや。

自己満足。
オ◯ニー。


なにをトンチンカンなことを言っている?逆である。


やはり自分を満足させられるのは自分だけであった。


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