哲学が私に与えてくれたもの
哲学は個人的でなければならない。と、適当に言ってみた。出まかせだ。怒らないで欲しい。文章は適当に(出まかせなどを)書かれるものであるべきではないと思うのであれば、それは思い込みだ。とはいえ、現に私がそれを指摘しているのは、まさに「多くの人がそう思っているであろう」ことを自分で認めているからと言える。そんなの当たり前だ。文章といえば、なんだかマトモそうじゃないか。「読書してます」と言えば「なにをくだらないことをしている」とは言われないのだ。普通は。
たいていの文章は、自分がなにか価値のあるマトモなことを演説しているかのような雰囲気を醸し出している。語り手の顔を(想像でだが)見れば、改まって、しっかりとして、もっともらしくなにかを語っているわけである。そういう態度が文章のメインコンテンツでさえあることは、私ももはや認めよう。それこそが書き手と読者の双方の憧れであり、仮により判断力のある者やただのよそ者から「なんだお前は。ただ調子をつけて、しゃしゃっているだけじゃないか」と思われようとも、抑えられるものではない......ことはなかったとしても、別段抑えたいものでもないし、抑えるべきものでもないように思う。それを抑えて振る舞うというのは、ただ他人に尽くしているだけであり、表現や創造性における「旨み」と、たぶん直接関係がないどころか、かえってそれを削いでしまうことは、感覚的に考えれば当然と言える部類ではないか。
文章というものが、我が物顔で物を語るから、たいていの人はこれに惑わされてしまい「なにくだらないことを言っている」という感想がとても出そうにない精神状態、というか先入観の中で書籍なんぞを読み始める。最初からなにかをありがたがろうという魂胆で読み始めるわけだ。彼らは自分のリーダーを探している。そういう世界観がすなわち「文章はくだらないことが書かれているはずがない」とか「文章はくだらなくあってはならない」という考えそのものであり、嘘や出まかせが書かれているかもしれないことに対する警戒を弱めている。フェイクニュースには気をつけなくてはならない。そして、それはニュースだけではない。ネットのどこかで拾い読みした話だが、太宰治の『人間失格』は、病んだ精神を「演じたにすぎない」ものであり、作者が本当に病んでいたかどうかと関係がない、という説が制作されていた。小説でなくとも、哲学であれ、記事であれ「作者はそれを適当に書いている」。これが私の持論である。私のモットーである。これは、あながち冗談ではない。私が真面目に文章を書くのがもうイヤだというのもあるが(これも重要)、他人の文章を簡単に真に受けないようにする、むしろ見上げた良識であるつもりだ。早い話、たいていの人は文章というものの内容を真に受けすぎだし、ありがたがりすぎなのだ。そのような心理がどこからやってくるのかはわかる。私だって子供の頃はそうだった。無闇にありがたがって本を読んでいた。しかし、そのような心理が、また、そのような心理のままでいることが、いったいどこへ向かうというのだ?いつまでも誰かについて行きたいのか。
そんなわけで、冒頭で私は適当なことを言ってみた。一種の発明として、そのような行為に出た。とはいえ、語り手が冗談でそれを言っているのかどうか、読者は意外にわからないものでもあるのだろう。私自身、つい最近、ある難解な文書について「あれは冗談で書かれていたのだ」という結論に到達したばかりである。私自身がこの有り様だ。それも、良識を以って客観的に考えれば、それは私の「凝った判断」にすぎず、真面目に書かれていた可能性は大いに残っているし、少なくとも一般読者からは依然そうみなされているはずであることも普通に理解している。私は、あれが冗談であるという考えを気に入っている。
私は文章を合理的に読みたい。語り手がどんな態度や身分であろうが、私自身に理解できない箇所は全てそれと認識できる自信がある。なんかよくわからないまま読まされるという事態に陥ることは、私が一番避けたいことなのだ。わからないことを恥ずかしがらずにわからないと言えなければ、言い方はキツイが、それこそ真の馬鹿者ではないか。わからないところを、作者が当然のような雰囲気を醸し出して語るという詐欺的あるいは勝手な手法を取っていたとしても、読者が「自分はそれをわからない」と自分から指摘できなければ、それは文章に飲まれているじゃないか。他人に飲み込まれてしまっている。つまり、読者とは、ある文章の然るべき点に言及「しなかった」時点で、その人の読解力はたかが知れてしまうのだ。他人が指摘した後になって「そうそう、自分も実はそれ、思ってた」などと言い出したり。後出し自体は悪いことではないかもしれないが、それを他人に明示されるまで、その人自身の中でそれをはっきりと認識できたのか、極めて怪しいではないか。私はどんな文章をも論評できる。なぜなら、自分にできないような論評はそもそも自分がする必要がないことに気がついたからだ。これは、きっとわかる人にはわかるんじゃないかと思われる、天才の作法である。何者にもなることなく自分を表現することは、古今東西でもっとも普遍的な、憧れの生き方ではないか。
「哲学は個人的でなくてはならない」。他の、一般に流布している哲学について、冗談で書かれているわけではないと受け止めるのは結構だ。なにより、実際に冗談で書かれているかどうかは本質ではない。客観的にどう判断できるかという点の方が、その文章の客観的な価値ではないか。どんな哲学や、どんな文章を真に受けるのも結構だ。一方、文章がどう書かれるかも自由であろう。私が冗談で適当に言った「哲学は個人的でなくてはならない」は、結構面白い。哲学が個人的なものであるべきと言う。哲学が普遍的一般的な原理であるみたいな、いかにも幼稚で自惚れた、もとい、ロマンチックな行為であることから離れて、芸術家が自身の芸術を追求するような自己中心的で退廃的なジャンルに変化する、とでもいった示唆がある。
さて、本題に入ろう。哲学が私に与えたもの。私は哲学書を多少読んで、文章というものが、ごく短いページやくだりであっても、極めて膨大な時間をかけても読み得るというイメージを得た。これはもはや、その文章が別段難解でなくとも、だ。読解とは、その文章に書かれている意味を理解するものでも、そのためのものでもない。まず、大抵の文章は、理解する価値がない。これは私の持論であり、退廃的な自慢の人生観だ。(もちろん、誇張して言っている)その文章が、理解する価値があるかどうか、耳を傾けるに値するかどうか、これが重要だ。さらっと言ってしまうが、わかりにくく書かれた文章は、これは一つの気取りである。そんなものに、私やあなたが取り合う価値はない。そういうのが好きというのなら別だが。ある種、文章は容易に難解になりうるのだ。そして、理解する価値があるかどうかは読んでみるまでわからない。読解とは「客観的にその文章がどう読めるか(どう受け止められるか)」と「読者自身がそれをどう受け止めるか」といったところであろう。筆者の主張を理解しようとついて行く必要はない。筆者は読者のご主人様ではない。筆者が強引な書き方をするなら、読者に見放されたり、てんで勝手に解釈されたり、稚拙、ないしは馬鹿者と思われたりするだけだ。もっとも、人はたいてい、内容そのものよりも、どんな権力者が、つまり有名な評論家や哲学者、作家がそれを言った(書いた)かどうかで是非も含めていろいろと判断しがちなようだが。
読解とは、筆者の主張があたかも理解するに値するかのような前提や雰囲気の中で、よく持ち出される。そうではないか?そもそも、解する必要なんてないではないか。誰の話も聞かなくてよい。(もう一度念を入れて断っておくが、私はいま、大袈裟に「悪ぶって」いるのだ。冗談まじりに言っている)筆者の意図を理解しようとして読むというのは、なんと良心的な世界か。客観的にどう受け止められるかと筆者の意図が乖離していそうな場合。面倒を見るように、筆者の強引さや拙さを大目に見るのは人格者と言える。一方、筆者の意図よりも客観的にどう受け止められるかを気にするのは、揚げ足取りの部類なのかもしれない。しかし、少なくとも、無関係の赤の他人であれば、そんな厄介な文章はそもそも読むに値しないだろう。
文章を読むとき、その文章が何を言おうとしているのかよりも、そこから何を受け止められるか、特に自分が受け止めるかの方が重要であることに、私は哲学書を読んでいて気が付いた。気が付いたというか、思い付いた。主役は文章の内容の方ではなく、それに対して自分がどう考えるかの方なのだ、と。私は、文章を読むという時間そのものよりも、自分が考える時間の方がずっと長くなるから、読むことにいくらでも時間をかけ得る。そのような読み方は実質的に書くことと同義とも言え、私はこれこそが楽しみだと思う。私は読了という概念を取り払った。読むときは自分のために読むので、自分の考えが発展したりまとまったりすることに意識を向けることを優先し、読むこと自体は頻繁に中断するし、何度も反復して吟味というか着想を模索し、しまいには最後まで読まずに自分の作文(その本の感想文などという直接的なものではない)に専念するのがもっぱらだ。仮に最後まで読んだところで、自分のリアクションや行動の方が重要だと考えるので、自分の考えの発展や変化のために何度も参照するだろう。読み終わっただとか、理解したとか、そういう極めて記号的な、行為らしいもののなかに、もはや価値を見出せない。哲学は私をこのような考えにした。
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