文章の独善について
独善的な文章は、突き詰めて言えば、支離滅裂な文章かもしれません。今回は、独善性が比較的弱い事例と強い事例の二つを出して、比べてみます。
歩いていた。雨の降る午後。私は街道の雑貨屋のショーウィンドウを覗いた。そこにある時計を見た。しかし、私が見たのは動物園だった。アヒルが飛び跳ね、鴨が泳ぎ、猿が居眠りしていた。私は不思議に思い、辺りを見回した。確かに街道だった。再びショーウィンドウを覗くと、私はもうどこにもいなかった。
[以上、例① (前回の物と同じ)]
もう一つ、
歩いていた。煙突の深い暗闇の中。私は雑貨屋のショーウィンドウを覗いた。そこにある教室を見た。しかし、私が見たのは動物園だった。そこでは飛行機が飛び、フランス革命が今まさに起きようとしていた。私は満足して、あくびをした。再び公園を訪れると、そこには私がいた。
[以上、例②]
例②はナンセンス、シュール、意味不明、非論理的という側面をこれでもかってくらい強めています。ほとんど全ての文同士が、まともな繋がりを持っていません。(と言いつつ、実は、厳密には微妙な繋がりが丁寧に作られていたりする。)
ちょっとここで、さらに独善的な例をもう一つ出す事にします。
歩いていた。カリフォルニア巻きが不足している。ヒトデが浜辺に打ち上げられた。実験は午後3時半に終了した。なんで僕だけがこんな目にあう? ありふれた無人島の消滅なんて、珍しい事ではない。もう気にしなくていいんだよ。
[以上、例③]
例③のように、ここまでくると流石に酷い物になってくると思われます。明らかに子供っぽさが増しています。ちょっと恥ずかしい。(とはいえ、これでもちょっとは気を使って調整されている(笑)。)
例①は、文同士の結びつきがまだ保たれている方で、そこが読みどころの根底を作るような感覚があるのではないでしょうか。特に「私は不思議に思い、辺りを見回した。」の文が論理的で理解できる内容であり、つまり客観的な当然のリアクションであり、読者がここに語り手の理性(=ナンセンスの逆)を見出し、安心して読み進める事ができそうです。
第1文と第2文の繋がりを見ても、例①は「歩いていた。雨の降る午後。」と、常識的に理解できる内容です。不思議なところは特にありません。一方、例②は「歩いていた。煙突の深い暗闇の中。」とあり、おかしな内容です。煙突の中を歩く事はできません。小さな妖精か何かでしょうか。重力とかも関係ない? などなど。ところでしかし、この例②のポイントはそこだけではなく「〜の中。」と、前文の流れを受け継いで、歩いている場所らしき物を一応表している点、実は密かに理性的です。これは程度の問題と言えます。理性(論理)の程度が低めに抑えられているとはいえ、その低い辺りをわりと正確にピンポイントで狙い撃ちしていくような文章・文体というのは、案外支離滅裂ではなく、“読みどころ”のある物として読者に受けれられる可能性があります。
これが、例③だと「歩いていた。カリフォルニア巻きが不足している。」と、まったく関係のない感じになっている。これだけではよく分からないから、先も読んでみるが、ずっとこの調子である、と。カリフォルニア巻きを食べた分だけ歩く事ができるだとか、そういった内容でもなさそうだ。単に無関係の文が羅列されているだけのような内容だと、そう言えそうです。ナンセンスを極めていて、すなわち独善が強く、意味を理解するような仕方ではとても読めた物ではないと思います。
ところが、この例③でさえ、文と文とがしっかりとした繋がりを持たない事が「あえて狙われている」のであれば、実はそれ自体が一つの理性(センス。ナンセンスの逆)であり、それは明確に文章に表す事ができ(例③の、例①とも例②とも違う「あんな感じ」として)、それが“読みどころ”となって読書に届く(受け入れられる)可能性があります。これが現代アートの仕組みかもしれません。
独善があっても(ないしは強くても)、その点を含めてどこかに意匠が感じられれば、意外とどんなところにも“読みどころ”は宿り得るのかもしれません。芸術だと考えればなんだか納得もいくし、芸術はそうであるべきだとも思います。
***
とはいえ、
一般的な意味での“読みどころ”がある、ないしは“読めた物”である事は、文同士の繋がりがある程度ある事だと思います。たぶんですが。
僕は普段それをやっているだろうか......?
ばいばい。(無理やり終わる)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?