「赤い風」という表現は“矛盾している”のか?

「赤い風」という表現は“矛盾している”のか?

「赤い風」はレトリックです。詩的表現です。読者はこれを見たとき「ああ、なんかカッコつけて“雰囲気を表現”したいんだな」と、しっかりちゃんと受け止めると思います。理解してると言えます、この「赤い風」という表現を。

この表現に対して「風は目に見えないのだから、赤いという視覚的な形容詞は不適切であり、言葉を間違って使っている。これはダメだ」と考える人がいたら、正直言って判断を疑ってしまいます。(価値観としての否認はあり得ますが、その場合、これが詩的表現である事を理解した上で自分はそれを好まない、認めない、と考えているのではないでしょうか。“根本的には理解はしている”のではないでしょうか。)

では、冒頭の問いにもどって、「赤い風」という表現は矛盾しているか? を考えると、

まあ、矛盾とかそういう問題ではない。詩的表現、レトリックは、言葉の性質の裏をかいた表現とでも言った物であり、超現実的な内容であるとも言え、二つの事柄が互いに食い違うとかいうそんな次元の話ではない、のではないでしょうか。

「風が微笑んだ(擬人法)」「新しい風」。

超現実的な表現。詩的表現。修辞(レトリック)。

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では、そういった超現実的な表現が文同士で行われたらどうでしょうか。

風が吹いた。だから私は応(こた)えた。

(以上、例①)

まあ、可能といえば可能な表現なんでしょうか。なんとなく分かる気がしないでもない。言わんとする事が。

この場合「だから」という語句がかなり重要な働きをしていそうです。というのも、

風が吹いた。私は応えた。

(以上、例②)

これだけだと、これもまあ、可能かもしれませんが、例①よりも独善性が増します。展開(文の連なり)が、より“ひとりよがり”になっています。

ただ、まあ、例②も許容範囲内なのかもしれません。

ところで、ここである問題があります。それは文脈の問題です。どんな文脈でその表現が示されるのか、という問題です。文脈とは、文や文章の流れの事ばかりではなく、その文章が「何」として(小説なのか、詩なのか、エッセイなのか、など)示されるのか、また、どういった人(不特定多数なのか、個人なのか、目上、目下、など)に向けられているのか、いつ、どんなシチュエーションで、などなど、あらゆる要素が含まれ得ます。表現は、この文脈と、切っても切り離せない物かもしれません。

具体的に、例②の表現が、詩として示されるのか、それとも小説の中に突然現れるのかで、表現が成立しているかどうかは変わってくるのだと思います。成立という言葉が“言い切りすぎている“のであれば、「(読者に)受け入れられるかどうか」と言ってもいいかもしれません。受け入れられ易さ。

くどい例示は避けます。大胆に結論を言うと、詩ではない文章の中に例②が“さりげなく、かつ、突然盛り込まれたら”読者は「ん?」となってしまう可能性が高いと思います。ひとりよがりで分かりにくく、伝わらない。

詩として見ればまあ理解できるが、小説の中に突如(とつじょ)現れたら不可解な物となる。

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ここから本格的な話です。

浜辺を歩いていた。ロケットが打ち上げられた。寿司が回転した。

(以上、例③)
往来に人は少ない。野には花が咲いていた。店内の男が私に話しかけた。

(以上、例④)

例③は、一見デタラメな物事が羅列されているように見えますが、実は“できるだけ無関係で、かつ、それ自体で単品で内容が完結しやすいような、ある種抽象的な内容”がわざわざ意図して選ばれており、言ってしまえば、ナンセンス叙述である事が伝わり易くなっている。“ナンセンスというセンス”。

一方、例④は、「往来のどこかしらに野がある」とかいう物理的に論理的な内容でないのだとしたら、かなり不自然な記述だと言えます。往来、野......そして店内と、話が飛躍気味に展開します。

スパっと言うと、例④は例③に比べて、“(語り手が)何がしたいのかよく分からない”。分からなさの度合いが例③よりも強い。意図が不明瞭。したがって、読みどころに乏しい。

出来事を表すような記述が中途半端に採用されていて、「れっきとしたナンセンス文章」のようにはあまり見えない。しかし、出来事を表すにしては、状況の描写・説明が明らかに不足していて、内容を把握しにくい。語り手が往来にいるのか店内にいるのか分からない。野がどこにあるのかも分からない。

ナンセンス文章なのか分からないし、ただ下手な文章なのかもしれない、そう受け止められる。

上で挙げた、詩ではない文章内に例②が唐突に登場する「マズさ」に近いものがある。文脈を無視していて、意匠や意図がどこにあるのか分からない。仮に例④みたいな文章がわざと狙って書かれていたとしても、それは読者に伝わらない。ひとりよがりだ。どこに面白味があるのか分からず、読みどころがない。

哲学的な事を問わせてください。

例④のような文章が意図であり得るのか?

あり得るのだとしたら、それはどんな意図なのか?

そしてそれに価値はあるのか?

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僕が書いた『アルカパーラー』なるシリーズは、例④のような物が狙って書かれています。しかし、街中の描写の直後に突然「野(野原)」の描写が登場する事は、なにか面白いでしょうか? 恐らく、奇をてらっただけの子供だましに過ぎなかったのだと思います。

ひとりよがりな展開をわざと強めた場合でも、もしどこかに何か面白みとか意匠とかが認められれば、そこが読みどころになるかもしれません。しかし例④はどうなんでしょうか。

分かりません。

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もし仮に例④の文章を反省するなら、どう改善させるか?

直感では、二つの方向がある。

一. ナンセンスである事をもっと分かりやすくする。

一. ナンセンスさを弱めて、もう少しマトモに内容を作る。


ばいばい。

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