真実一歩手前

俺達は真実の一歩手前まで近づくことに成功した。しかしここからが遠い。というのも、ここが崖っぷちに見えるからだ。

「その一歩、踏み出してはならぬ」

やっぱそう思う? 真実とはいつもこんな感じなんだよな。これじゃまるで身投げだ。

ーー真実とは何か?ーー

俺達はその答えを、この20年、世界中を探して回った。世界と言っても、地球のことではなく、近所の公園とか、海辺とか、居間とか、ウサギ小屋とか、そんなところだ。自分から見た「小さな世界」に過ぎない。“恐らく小さいであろう”世界。しかし、なんでそれを俺が「小さな」世界だと自分の口から、先手を打ってなのか、断らなくちゃいけないんだ? ”どこも小さくない“。

真実はいつも、つかもうとするとたちまち霧散してしまい、そこに何かがあったのかどうかさえよく思い出せない虚無のような混沌のような、つまり日常だけが取り残され、そこを俺達は、水槽に飼われた熱帯魚のように、あてもなくゆっくりと泳いでいるのだったーー、泳ぐのか漂うのか判然としない「生活」を、時に強く、時に弱く、そしてやはり”ただ単に“送っている“だけ”なのだった......なーんてことは全然ない。それは真実の一般的なイメージだろう? 俺の場合、真実はだいたい身近すぎるところにあり、それも、たくさんあった。両手では抱えきれないほどの真実が、公園で日向(ひなた)ぼっこしていた。

俺はどれを捨てるか迷った。この、数ありすぎる真実。しかし、それも自惚れというものだった。そもそも、どれもまだ俺は所有していないからだ。両手で抱えきれないほどの数、と言っただろう。実際には、どの真実を拾うかで迷ったのだ。

ーーで、真実とは?ーー

まあ待て。だいたいどの真実も不恰好だった。「え、お前が真実か......?」と俺が不躾(ぶしつけ)にも問うと、真実の方も、俺の胸中を察したのか、「......そんなわけないだろ」と答えるのである。答えてくれるのである。

巷で、ーーちまた、と読む。みなとではない。......いや、港の方がいいか?ーー港で「わたし真実です」という顔して今まさに出港しようとしてるアレ、なんてことない、アレはただの理想である。あんなもんにホイホイついて行ったら、どんな惨めな島に幽閉されるか、知れたものではない。もしくは、屋上で空から手招きする幽霊の話、どっかになかった? あれみたいなものだ。いや、あれそのものだ。そんなものに誘われるがままに一歩を踏み出してしまっては、この見晴らしばかり良い断崖を、まっさかさまだ。

ーーで、真実とは?ーー

そんなわけで、俺はどの真実に「キミに決めた!」と言うか、途方に暮れてしまったんだ。どの真実も、不恰好なりに、“それなり”に見えた。偉そうな言い方になってしまったか。ちょっと断っておくが、これは恋人探しのことではない。恋人を真実という言葉に喩えて表現しているのではない。俺は大真面目に真実を探している。真実そのもの、文字通りだ。

俺は自分の真実を決めることができずにいた。俺は数ヶ月前から詩作を始めていて、ーーというより、自分の書いたものを「詩」と呼んだ方がよさそうだと考え始めただけなのだがーー真実を決められずにいる自分を、真実を探して精神が放浪する様を「森に迷い込む」こととして暗に表現しようとした。書いた当初は「創造性を求める」ことをイメージしていたが。しかしどっちだって構わない。どっちだって大差はない。創造性と真実、“どっちの言葉にも大した意味はない”。

詩にはなにか意味があるわけではない。ーー意味のある詩もあるだろうがーー。俺は「創造性を求めること」をイメージして、そんな風なことを表す詩を書いたが、その詩がそんな風なことを意味するのだというそういう“答え”が重要なわけでは、別にない。「創造性を求めること」として書いた詩が「真実を探すこと」と読者に受け止められようが、はたまた全く違った風に受け止められようが、別に構いやしないのだ。詩なのだから。“どれも正解”である。

ーーそれが真実か?ーー

かもしれない。詩はなにかを表しているかもしれないし、なにも表していないかもしれない。しかし、なにも表さないでいることなど出来るだろうか?

詩はなにを表してもよい。すでに書かれたある一篇の詩がなにを表しているか、そして“これから”なにを表すか、言ってしまえば、それは自由である。なにを表そうが、自由だ。それは読者の自由かもしれないし、詩の自由かもしれない。なにかを誤解なく伝えるというはっきりとした目的を持つ文章とは、この点が決定的に違うのだ。詩は自ら誤解されに行くようなものだ。誤解の余地をわざと持たせ、どうとでも受け止められるようにした。

ーーそれが真実か?ーー

どう誤解してくれても構わない。俺はさしあたり詩について語っているのだが。この文章自体が詩でないとも限らない。真実について語っていたら、いつの間にか詩について語っていた。俺は自分の真実を決められずにいて、その様を詩に表したのだった。そしてその詩もまた、自身の意味を読者に委(ゆだ)ねた。

言ってしまえば......どれが真実でもよかったんだ。キミが真実ならそれでもいいし、アイツが真実ならそれでもいい。そこの石ころでも、あの大海でも、そこのゴミ収集車でもなんでもいい。公園に咲いた小さな花でも。なんだっていい。どれも好きにも嫌いにもならないだろう。

ーーそれが真実か?ーー

お前、ちょっとしつこいぞ。今それを語っている。真実は一人でいることを望むーー誰にも見つからないで、誰にも知られずに、ひっそりと、しかし、たしかに存在するーーこともあったし、構ってもらいたがることもあった。人は真実に構おうとするとムキになったり、真剣になったりして、人のそういうところを見て真実はいつもさも満足げだった。そういうときの真実は必要とされたがっていて、誰かにそっと抱きしめてもらいたがった。しかしそれをできた者がはたしていただろうか?

真実とは適度な距離の取り方がある。近づきすぎてもいけないし、遠ざかりすぎてもいけない。追い求めすぎたら消えてしまうかもしれないし、逃げすぎたら追いかけてくるかもしれない。好きにも嫌いにもならないと俺は言ったが、それは、好きにも嫌いにもなってはいけないからなんだ。

真実はあいも変わらず、すぐそこに寝そべっている。この至近距離でだ。俺はこの真実を既に手に入れていると考えることもできそうだし、手に入れておらず、これから先もずっと手に入れることはないだろうと考えることもできそうだ。そしてそれらになにか重要な違いがあるのか、俺にはわからない。

ーーそれが真実か?ーー

......。そうだ。

俺はとうとう音を上げた。

***

読者の方は、この文章を読んで、少しは真実に近づけただろうか。むしろ、読めば読むほど、かえって真実から遠ざかっていっただろうか。「真実」という言葉の周りをただぐるぐると回っているだけで、当の「真実」には一向に近づかない。すぐ目の前に見えているこの「真実」という言葉に到達するための最後の一歩が永遠のようにさえ感じられる。この語り手は、「真実とは何か」を本当に語る気があるのだろうか。


もちろん、初めから、なに一つ語る気はない。

それが俺の真実であった。


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