まったく違った読み方

自作の詩を自分で講評する試みを先日行ったのだが、それをしてからしばらくすると、あそこで書いた自分の講評がとても一面的なものにすぎないのではないかと思われてきた。

あの自己講評では、『朝☆』という散文詩を「相当な駄作」と結論づけていた。

その結論は、別に間違っていない。架空の熟語を使うという子供騙しなところ、また、そもそも言葉の繋がりが出鱈目でたらめの域を出ないところなどは、客観的に見て事実だ。

しかし。

しかし、思い出してみれば、あれを書いた当時の僕は「それでいい」と思っていたのではなかったか。伝統的な価値観からすれば荒唐無稽なものとみなされるだろうが、それでいい、と。そう考えて、あの他愛もない詩を書いたはずだったことを、ついさっきまで忘れていた。


当時の僕の意図はこうだった。
「詩を書こうと思う。しかし、僕は、一般的に言われるところの詩情だとかには興味がない。詩情や叙情なんかよりも、無味乾燥な味わいで良いから、無骨に創造性ばかりを追求したい。そして難解さが欲しい。そのうえ、さらなるオリジナリティとして、内容は全て冗談であってほしい。つまり、馬鹿みたいな内容で構わない」

そして、問題は次の点である。

僕はその意図が、客観的に見ても興味の対象になるのではないかと健気けなげにも淡く期待していたのだった……。


こう書いてみると、正直、当時の僕が持った意図は、それ自体ではなかなか興味深いもののような気もしてくる。しかし、それをもとに実際に書かれた詩はといえば、平たく言えばただ奇をてらっただけのものにすぎず、一般的な詩の読者から見て、興味深いものでも技術に基づいたものでもなく、一方で、詩に興味のない人にとっても当然、興味を引くものではなかった。


ふん。もういいよ。


***

では、あの詩の講評はどうなる?結局、どんな結論になるのか。

客観的に見れば、だとか、伝統的な、主流な価値観に即して保守的に見れば、『朝☆』は駄作だ。もちろん駄作だ。もちろん、と言っていい。

しかし、そのような判断ないしは態度は、ある意味で非常に弱気な、長い物に巻かれたがる精神なのではないか。


人に認められたければ、あの詩を駄作だとする一般的な価値観を受け入れ、物分かりよく、他人と手を取り合い、笑い合い、認め合って生きていけば良い。

他人を認めず、我が道を行きたければ、馬鹿にされようが、笑われようが、あの詩は芸術であるのだと退廃的にも自称して、孤独に愚かにツッパっていけば良い。


断然後者だろう。


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