文章は容れ物ではない
書きたい事なんていくらでも湧いてくる。ウジ虫みたいに。これまで黙って生きて来たんだから、そうなりもするもんだ。
これには秘密もある。俺は文章を、少なくとも今ここでは、「内容本位」で考えない。もっと表面的な文章の様相、外観を、文章の成立、存在根拠と考える。だから俺は、わざわざかしこまった「内容」を持ち込まなくても、その都度違った様相の文章が書けるんだ。文章の意味を抽象的に見出さないとも言える。かえってわかりにくくなったかな。俺は文章において、何か作文よりも抽象的な行為を行う意図がない。自己紹介を行おう、とか決めて文章を書くことがない、という事である。そのようにする事にしたんだ。それが俺の技術の現到達地点である。文章が、ただ内容を伝えるための物ではなく、何かそれ自体で意味のある、俺の場合、言ってしまえば、それ自体で面白みのある玩具と考えているのだ。玩具と言っても大人の玩具である。ただの娯楽と言うにしては、俺は真剣すぎる。俺の文章には、そのまま俺の人生が映されている。
「器官なき身体」という言葉がある。これは、体の内に、心臓や肺といった器官の区別を見出さないという見方もある、と言いたいのだ。心臓は実は無い、とか言いたいわけではない。いや、そうとまで言ってしまえるのだろう。これは必ずしも量の話、全体に対する部分の話でなくとも良い。俺は自分の文章に、具体的な意味や位置付けを特に見出さない。自己紹介という側面は、言ってしまえば、全ての文章が持っているのだ。文章は容れ物ではない。何か作文とは違う、それ以前に存在する行為を入(容)れる杯ではなく、それ自体が酒である。俺の場合、もっと怪しげな液体だがな。気持ち悪いって言うなよ。気持ちいいんだよ、こういうのが。気持ち悪くなきゃ、人生じゃ無いだろう?お前は気持ちのいい奴なのかよ?嘘だね!ん、俺よりは気持ちのいい奴?間違いない。だからお前はしょうもないんだ。かっこつけてんじゃねえよ。気持ち悪くなれよ。馬鹿が。