【哲学】「上手い」とはなにか①【オリジナル対話篇】


対話人物:
ソクラテス
ポプ


ポプ: ソクラテス、こんにちは。今日、僕はひとつの話題を持ってきました。あなたと議論するのに最適の話題を見つけたのです。

ソクラテス: やあ、ポプ。久しぶりだね。随分と大きくなったね。もう150cmもあるんじゃないか?

ポプ: そんなことはいいです。僕は今日、ひとつの話題を持ってここへやってきたのですが、その内容について、特に事前に思索を深めてきたわけではありません。事前に思索を深めても、あなたと議論すれば、そんな思索はたちまち打ち崩されてしまうと思ったからです。また、あなたと議論すれば、その議論がすなわち思索となり、より優れた考えに自然と到達できるのではないかとも思ったからです。ほら、あなたの議論の仕方は「産婆術」として有名でしょう。

ソクラテス: ふむ。

ポプ: ソクラテス、あなたは、まるで産婆が出産に立ち合い、赤子が生み出されるのを手助けするかのように、対話相手の中から思想を導き出しますよね。導き出す、というか、なんて言うんでしょうね。対話相手の主張する、まだ出来たてホヤホヤのアイデアを、あるいは、産まれきっていない、未完成の、成長途中の思想を、それにあれこれ質問する形で議論を広げていくことで、より確固たる、明確な、優れたものにしてくれるでしょう?

ソクラテス: はて、そうだったかな?そんな気もするような、しないような。

ポプ: あなたは、あなた自身が自説を主張するのではなく、対話相手の主張を聞き出し、それに乗っかり、それをどんどん押し広げることで、議論を展開するでしょう。そうやって、相手の考えを深め、発展させていき、ひとつの思想として生み落とそうとして議論するでしょう?

ソクラテス: それは、そうだね。私はいつも、みんなの考えをもっとよく聞かせて欲しいと思っている。だから、君が今回持ち寄ってきてくれた話題とやらについても、君の考えをたくさん聞かせて欲しい。だのに、君は、事前に特に思索を深めてこなかったと言わなかったかね?それではあまり話が進まないかもしれないよ。

ポプ: ふっふっふ。ソクラテス、僕には、あなたの手の内がわかっているのです。あなたはいつも、相手の考えに質問する形を取りながら、その実、相手の考えの持つ弱点を探索し、そして結局は、だいたいの場合において、相手の考えが浅はかなものであることを証明してしまう。結果として残るのはいつも「無知の知」、つまり、「◯◯は△△だ」と単純に主張できるものではなくて「『やっぱり、わからない』ということがわかった」という結論ばかりです。つまり、対話相手の主張はまんまと打ち破られてしまうのです。

ソクラテス: そんなことが多かったかもしれないね。私は、相手の大それた言明に興味が湧き、それについてもっと詳しく聞いてみたいと思い、質問しながら議論するのだ。その結果として、相手の言説に瑕疵があることが明らかになってくる、つまりほころびを見せる結果になることは、どうも多いようだな。

ポプ: そうです。町中の弁論家はソクラテスに言い負かされて悔しがっています。そこで、です。そこで、今回は、僕は、あなたの目の前で、大胆不敵に自説を展開することを控えようと思います。そうすれば、僕が負けることはないでしょう?

ソクラテス: やれやれ、困ったものだ。では、私は君に、いったいなにを聞けばいいのだ?私が興味があるのは君の考えなのだが。

ポプ: 僕は、自分の考えを事前に深めてきていません。思うに、多くの者がソクラテスに言い負かされるのは、「偏った考え」を主張するからなのです。言い換えれば、一方的な考え方を主張している。だから、ソクラテス、あなたに足元をすくわれるのです。そこで、僕は今回、自説の代わりに、ある大きな武器を持ってきました。その武器を使って、あなたと議論しようと思い、今回、参上したのです。

ソクラテス: ほう。その武器とはいったいなんだい?それは教えてくれるのかい?

ポプ: もちろんです。それは「常識」です。

ソクラテス: ほおう?

ポプ: 今回僕は、常識を主張しに来ました。僕は、常識を以ってあなたと議論しようと思います。偏った考えに囚われるのを避けて、常識を中心に意見を主張しようと思うのです。

ソクラテス: なるほど、なるほど。これはまた、立派で頼もしい考え方だね。常識は大切だ。変に議論をこねくり回していては、しょうがないからね。にしても、君はこれまで*は常識に基づいてものを主張してきたのではなかったのかね?

(注*: ポプは、ここだけのオリジナル登場人物です。以前にも議論があったかのように描かれているのは、ただの演出です。深い意味はありません。)

ポプ: そうですね。これまでは、どこか偏った、「言いすぎた」アイデアとでも言うんでしょうか、そういったものを主張してきたように思います。つまり、常識から逸脱していた。

ソクラテス: そうか。では今回は、君は常識を逸脱せずに主張するというのだね。いいだろう。是非、聞かせて欲しいね、その常識を。では、その話題とはなんなのか、教えてくれるかね?

ポプ: 「上手い」とはなにかです。

ソクラテス: うまい?

ポプ: そうです。「上手い下手」です。例えば、絵描きには上手い人と下手な人がいるでしょう。つまり、上手い絵と下手な絵がある。歌手にも言えます。上手い歌手と下手な歌手。その「上手い下手」が、今回の話題です。

ソクラテス: なるほどね。「上手い下手」か。これはまた、いかにも議論を引き起こす話題だね。君が、これは「上手だ」と思う作品が、誰かに「下手だ」と言われた、とか、そういう話だね?

ポプ: そうです、そうです。まさに、そういう話です。

ソクラテス: 何事においても、達者な人物と、そうでない人がいるね。料理、スポーツ、いろいろな分野において、だ。しかし、ポプ、君の描いた絵がけなされでもしたのかな?事情は知らないが、誰かに上手いと言われたものが、別の誰かから下手だと言われることは、日常に、それなりに頻繁にありうることだよね。

ポプ: ええ、あり得ますね。

ソクラテス: 主観による違いというのだろうか。人によって感覚は異なるという話だろうか。その話なら、私はすでに散々してきたつもりだ。それをいまここで全て掘り返すのは、ただの無駄骨のような気がしないでもない。私のこれまでの議論の記録が残っているようだから、そっちを君に読んできてもらいたいね。

ポプ: まあ、まあ、落ち着いてください。いいではないですか、僕に質問してくれるだけでいいんです。「『上手い』とはなにか?」と僕に質問してくれさえすれば。それが、今回の話題の出発点なのです。僕は、自分の常識にのみ基づいて主張するわけですから、過去に行われた議論を研究して知り尽くしている必要は特にないと思うのです。

ソクラテス: おお、これはまた、えらく大胆なことを言うね。君がこれまでどんな体験をして、また、どんな本を読んできたのかを私は知らないが、では、君の言うその常識を、私に見せてくれたまえ。「上手い」とはなんなのか?常識に基づいた君の考えを教えてくれるかね?

ポプ: そうですねぇ。少し、考えさせて下さい。なに、心配しないでください。そんなに長いこと考え込みはしません。なにせ、常識の範囲内での思考を主張したいのです。「上手い」とはなにか……、そうですねぇ、人より秀でているということでしょうか。

ソクラテス:ほお、なるほどね。もっともだね。上手いということは、秀でていることか。いかにもそんな感じがするね。

ポプ: でも、待ってください……。自分で言っておきながら、あなたに反駁される前に、なんだか既に危ういことを言ったような予感がします。考えすぎでしょうか。

ソクラテス: さあねぇ。別に、不自然な主張とも思わなかったけどね。

ポプ: まあ、待ってください。僕だって、少しは哲学を経験しているんです。では、ここで、いきなり着目点が入り乱れるようですが、「『上手い下手』は存在するか?」と質問してくれませんか?

ソクラテス: いいとも。「上手い下手」は存在すると思うかい?

ポプ: そうですねぇ。常識的な感覚に基づけば、「上手い下手」は存在すると思います。これは、はっきりとそう言うことができるような気がします。僕は実際、幼少期に、絵を描いて人に笑われたことがあります。つまり、僕の描いた絵が下手だったのです。一方、僕の友人にパヤオという人物がいるのですが、彼が昔とても上手な絵を描いていたのを覚えています。僕はあのとき、パヤオの絵を見て「上手いな」と素直に思いましたよ。「『上手い下手』は存在するか?」なんて問いは、哲学を知らない者からすれば、むしろこれの方が荒唐無稽な問いに聞こえるのではないでしょうか。「上手い下手」は当然存在します。

ソクラテス: ほう、ほう。「上手い下手」は当然存在するか。なるほど、言われてみると、なんだかそんな気がするね。現に、私たちは、「上手い」という言葉や「下手」という言葉を使って、意思の疎通ができている。つまり、「上手い」や「下手」という言葉を口に出したとき、それらの言葉の意味は、常識的な範囲において、無理なく自然と認識され、そして伝わっているよね。

ポプ: そうです、その通りです。「上手い」「下手」の言葉の意味が全くにわからないのでは決してなく、あくまでも、常識的な次元においては、それらの意味を常識的な仕方で理解することができるのです。その上で、哲学としてあえて改めて問い、より深い理解を目指そうということなのです。

ソクラテス: 常識的な次元では「上手い下手」は存在するのだ、と。それも、当然存在する、と、そういうことだね。ところで、しかし、ある者が「上手い」と言った作品が、別のある者に「下手だ」と言われることがあるね。これについてポプ、君はどう思うか?「上手い下手」の感覚は人それぞれなのだろうか?

ポプ: 人それぞれという面はあると思います。

ソクラテス: 人それぞれ、受け止め方が違う、と、そういうことだね。それは、もっともだね。同じ料理を食べても「美味い」という人もいれば「不味い」という人もいる。良し悪しの基準は人それぞれである、という考えは、現実を見ても、別に不自然なものではないね。

ポプ: そうです。

ソクラテス: では、そのように、人によって感じ方や捉え方の基準が違うのであれば、例えば、ある作品(ないしは、料理)に対する感想が、それぞれの受け手ごとに全くに無秩序に入り乱れるだろうか?つまり、例えば100人にアンケートを取った場合、どんな作品についても、「上手い」と「下手」と答える人の割合が全くに予想できないのだろうか?

ポプ: どんな作品についても……?人々が「上手い」と感じるか「下手」と感じるか、全く予想がつかないか?うーん、そんなことはないんじゃないでしょうか。そんなことはないと思います。「上手い下手」を見分けるのが難しい作品は確かに存在しますが、あらゆる作品について「上手い下手」の意見が一切予想できないということはないはずです。常識の範囲内で考えれば、「上手い下手」は当然存在する、と僕は言いました。受け手の感想が全くに無秩序に入り乱れるということはないと思います。

ソクラテス: とすると、基準は人それぞれであるとは言っても、それは全くに100%各人ごとに異なるのではなく、概(おおむ)ねでは「上手い下手」についての共通認識がある、ということだね?

ポプ: そうですね。常識的に考えて、そう言えるでしょう。


(つづく)

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