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🕯寿命を迎える前に、会いたい人間に会っておくという話
普段は母の観察日記だが、昨日、母の妹(叔母)の葬儀に母を連れて行っていたので、その件について、思ったことを、まだ記憶が新しいうちに書いておこうと思う。
母は、一昨年父を亡くし、そのあと一冬は非常に落ち込んで「私もいつ死ぬかわからん」と言い続けていた。
いや、正直「私もいつ死ぬか分からん」は10年前からずっと言っているから緊迫感も何もないが、まあ確かにこの時点で母は87歳になろうとしていて、まあいつ死ぬか分からない。
そうなると、いつ死ぬかは分からんが、ここはひとつ、母親の心残りを退治しておこうと思ったわけだ。
つまり、まだ正気で話せるうちに、残った身内を会わせておこうと思った。
この時点で、母の近い血縁で生き残っていたのは三つ下の母の妹の84歳,こっちも認知症。
こうなるといつどっちが死んでもおかしくない。
母は、ガラス工芸が好きで、ステンドグラスのランプだの、皿だの大量に持っていて、特に気に入りのステンドグラスのランプを妹に形見分けするのだと言っていた。
というか、そのステンドグラスのランプは結構デカくて気軽に送れるようなサイズではない上,割れ物だ。
去年の私は思った。
形見分けなんぞと言わず、生きてるうちに会わせるついでに、渡して仕舞えばいいのでは?
生きてるうちに渡した方が感謝のことばも聞けるだろ!
自分天才じゃね?と思ったが、今回、叔母の訃報を聞いて、やはりそう自画自賛した。
妹の訃報を聞いた母は、去年会わせておいたことで、納得のいく形で別れを言えていたことで、思ったよりも落ち着いていた。
別れは、生きているうち、それも意識があるうちにしか言えない。
誰しもが、いつか死ぬし、その時期は誰しもが違う。
心残りが残らないように、訣別もまた、通過儀礼なのだと思う。
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