雑談読書の距離
2024年10月18日、初回となる雑談読書を開催した。「開催した」というよりも雑談読書の形式に於いては「協力して頂いた」に近い。
雑談読書というのは、主催である私自身が困難を感じる読書体験に「人に見守られながら音読して雑談して読書する」という形で人を巻き込み協力を要請する読書形式である。雑談読書に協力してくださる方々の総称は「読書サポーター」と名付けた。読書する人/読書サポーターという関係が会に参加する時点で発生する。
読書サポーターの方々には現時点でいくつかのお願いをした。以下は著作権切れ作品を読書する雑談読書、X(旧:Twitter)内のスペースという機能を使って行った場合の例である。
今後雑談読書を続けるにあたって、お願いする項目が増えたり、改変していく可能性はあるが初回はこのようなお願いを事前説明した。
また多義的な表現もあるので補足すると
①の「見守り」についてはスペース開催の場合、読書サポーターがリスナー参加している時点で既に成立している。その前提から④のスピーカー参加が必須ではないという話に繋がる。最も、この雑談読書を実践するきっかけに「喫茶店での読書や勉強は何故だか捗るよなあ〜」という個人的な体験があった。この体験については私と同じく心当たりのある方はいらっしゃるのではないだろうか。雑談読書では読書サポーターに、喫茶店の「偶然そこに佇んでいた客」が「席で音読を始めた客に興味を持ったり持たなかったりしながら珈琲を飲む」というような役割をお願いしたいのだと思う。それが②の枝葉と表現した「目的は読書だがその過程に雑談のようなものが存在する」という構造にあたる。
参考までにカフェ勉と家勉の特徴や効果について簡易的に説明した記事を共有する。
ビジネス関連のサイトではあるので、タスクの完了を効率化する成果主義的な側面が強い内容だがカフェ勉に応じた人/家弁に応じた人の違いとして参考にしてもらえればと思う。
私自身は一般的な黙読での一人読書だと読める内容はかなり限られてくる。例えば多義的な表現が多用される小説だと読了するまでにかなりの時間と労力を要する。恐らくだが、多義的な文章というのは私にとって自身の情緒も取り出されるような作用があり、それはとても勇気がいることだった。出すと決めた時に雪崩のように湧き出た情緒に一人で立ち向かうのは負荷がかかるのかもしれない。そういったものを良い塩梅に調整する操作がうまくいかないように思う。なので直接的な干渉がなくとも、読書サポーターさんに見守られている状況は、心理的安全性が高く、それだけで読む事に対する余計な怯えがなくなっている。そこに存在しているという実感だけで助けられている。
こちらの記事では黙読と音読についての興味深い関係が述べられていた。雑談読書以前の体験として幼少期に弟と雑談読書前夜のような時間を過ごしていた。その時は私が音読していたのだが「読めている」という実感が強くあった。その後雑談読書を開催する迄に友人に協力を願い、1対1での雑談読書をしたがその際も「読めてる」と思った。恐らく音読から黙読へ移行する段階で何らかの困難があった筈なのだが一義的な文章の場合はそれができている点から、何かそれだけが理由ではないようにも思う。
そのような体験から雑談読書を始める事にした。当初は読書サポーターを募ったものの、実際に助けてくれる人が現れるかも未知数だった。幸い協力してくださる方のお陰で初回を迎えることが出来た。
初回の感想としては、まず「読めた」。選書した内容が面白かったのもあるが、スペース開催でも安心して音読しながら読み進める事が出来た。また最中に作中の不明な生物に関する情報や自身の経験になぞらえたコメントを頂いたり、終了後にフィードバックや読書感想を頂き感動した。中には雑談読書中に絵を描かれたり、寝転びながらラジオのように聞いてくださった方も居たようで不思議な共時性を感じた。
私が例えを出したのもあるが、喫茶店や教室にいるような気分、ただそこに居るだけの空気を読書サポーターも感じ取っていたのは驚きだ。 長くなってしまったが次回以降も選書や状況によってどのような変化があるか楽しみである。
雑談読書を支えてくださる読書サポーターに切実な感謝を込めて。
(私は普段、口語に近い文体で文章を書くのだが、それが読みにくい方も居ると想定し、このような文体で書いてみた。読書感想文等を書く際は口語文体で書くかもしれない。今回のような雑談読書についての記事はなるべく多くの方が読みやすい文体で書こうと思う)
拷問部屋所属です