空と空 その5~空と ~
流々についての話しを聞いてから、数日が過ぎた。あの幻想のような朝のひとときは、その次の日にまでおよび、姿を見かけたときには気軽な交流が図れたものの、その日をまたいで以降は、初めて出会ったときのような、無機質にも思える気配しか感じられなかった。
何か少しでもよい方向へ。どんな、かかわりが持てるだろう。
それから優介は、数日の間にいろいろと考えた。考えを巡り、巡らせ、なかなかしっくりとこない空想に実践的なことは思い至らず四苦八苦していたが、ようやくひとつ、形になった。
朝の目覚めから脳に酸素をやって、奇跡的な速度で覚醒をする。朝食を終え、さらに覚醒を促すためにコーヒーを飲み干すと、昨日の内に購入しておいたスケッチブックを持って中庭に出る。心地よい空気も、明るい空も迎え入れるような温かさがあり、空にはほどよく白い花が咲いていた。
スケッチブックを広げて、空を見上げる。鉛筆を走らせた。
小さいころを思い出しながら、空を描く。写し描きと言えばそうであったが、自然を相手にはそううまくはいかない。描きながらも雲は時間と共に少しずつ変化を加え、確実に優介が描く速度を超えて形を変えていた。とりあえず想像を織り交ぜながら、写し描いてみる。空というキャンバスが描いた絵には敵う由もないが、完成に向けて鉛筆を走らせた。
ある程度の線が描け、雲の造詣ができあがると、色鉛筆に変えて色づけをする。その工程がまた大変であった。単純に空を描くならはじき絵にするべきだった、と後悔しながらも手を動かす。自分のイメージと目の前の風景、そして実際に描いている色とではまったく合わさることがなく、違和感の塊が どん そこに座りこんでいた。
それでも、ひとまずのところ絵は完成した。どれだけ空を描けているのだろう。じっと完成した絵を眺めていたが、優介には判別のつかないものであった。ページをめくると、次の絵に取りかかった。
角度を変えながら空の絵を描き続け、ちょうど四枚目に差しかかったころ、流々の姿を視界の端に捉えた。遠目から見ても、すっかりとあの奇跡とは打って変わって近寄りがたい雰囲気が、ありありと醸し出されている。しかし、優介は勇気をひねり出すと、声をかけた。
「ねぇ、この絵、見て、くれない、かな?」
そのまま何もなく通り過ぎてしまうかとも思ったが、流々はその言葉に反応すると、無造作に置かれたサンダルのひとセットをはいて、すぅーっと優介のほうに近づいてくる。目の前まで近づいてくる流々の、色のない瞳がよく見える。どきり としながらも、後には引けずに、優介は描いた三枚の絵をめくって見せると、スケッチブックを差し出した。手は虫の翅のように振動している。流々は黙ってそれを受け取ると、じっと見ていた。
そこは何の音もない、無言の鳴り響く無音が、より静かな音をかまびすしいほどに表出させる。しかしそれが聞こえるのは、自分自身だけかもしれない。
手渡した後も優介の震えは止まらず空気にまで浸透し、鼓動と共に鮮烈に鼓膜を震わせているようであった。思わず握り拳を作り、心を落ちつかせるよう努めながら流々を待っていた。改めて考えてみても、こんなにもすなおに受け取ってくれるものとは思っておらず、少なからず動揺もしていた。自分で考えていた以上にスムーズに物事が進むと、その緻密な計画を練った自分やその手腕に酔いしれるよりも、そもそもの計画が破綻していてあらぬ方向に進んでいるように、感じてしまう。もしくは、踏み出すのに必要な一歩だけが勇気のいるもので、踏み出してしまえば単純なものだったのかもしれない。
しかし、実際にどう進んでいるのかまでは、当の本人にもわからない。
少なくとも、現在優介が感じているものはまた別のものだった。勢いに任せる無謀さには、何を感じるものがなくても踏み出せてしまえるものの、拍子抜けするほどによどみなく受け取ってもらえたことに意識は抜けてしまい、その先のこと、自分で描いた絵を評価してもらう、というほうにシフトしていた。描いているときは自由に描いていたものの、いざ見てもらおうとすると、何とも言えない羞恥を感じていた。こんなにもまじまじと見られるとするならなおさらで、まして流々は画家である。そう思うと、いまさらながら、ますます恥ずかしい気持ちになった。
ただ、そんな気持ちを感じながらも、こんなにもじっくりと絵を見てもらえること、絵を受け取ってくれたことにも、優介は満足を感じていた。
拳を開いては、また力強く握る。呼吸をゆっくりと整える。そうしているうちに、気持ちも落ちつき始めた。
空は移ろい続けている。先ほどまで描いていた絵は、もうどこの風景であったかもわからないように、旅立って行ってしまった。いつ、どこを描いても、そのたびにまったく別の絵に仕上がるのだろう。頭の中にあるイメージと、実際に見える空にはぼんやりとしたずれがあり、何が空かもわからなくなりそうな様子が、どこか滑稽にも映る。優介は、自分が本当に「空」を描いたのかどうかも、もうわからなくなってきていた。
思考に耽る間に、いつの間にか絵から目を離し、流々は優介を見つめていた。優介がその視線に気がつき、目が合ったとたんに
「おもしろくない」
即座にそう口にした。
いい、悪い、うまい、下手、などのステレオ的な答えを想像していた優介にとってそれはあまりに予想外であり、鳩のように動けなかった。
流々は目を逸らすこともなくただただ優介を見つめている。これまで、これほどまでにしっかりと互いに目を合わせて見つめられたことはなかった。その瞳は一切の感情を排した空虚なものにも思えたが、強さ、弱さのない意志を宿してもおり、あまりにもまっすぐに優介を射抜いていた。言葉の調子にも悪びれる様子もなければ、悪意も、善意も何も感じない。まるで、それが当たり前のように伝える口調に、真剣な気持ちが表れているようだった。
優介はそんな流々の様子を見つめながら、何も言えずにいた。
おもしろくない、その言葉がどこかで跳ね返ってきて、改めて聞こえてくる。それは何を指し示しているのだろう。技術的なもの、構成的なもの、題材そのもの、それとも。それが何かを想像する前に流々は黙って優介にスケッチブックを戻すと、そのまま行こうとしてしまう。そのよどみなさに流されてしまいそうになったが、何とか反応する。
「ね、え、なにが、おもしろく、なかった?」
意外にも、流々は律儀に話しを聞いてくれるらしい。ぴたり 立ち止まったかと思ったら、そのまま何も言わずに戻ってくる。ため息をもつかず、笑顔もない。優介は、自分で呼び止めたにもかかわらず、その動きに狼狽し、戻ってくる姿に鼓動を速めている。それも無理はないのかもしれない。
これほどまでに、流々の瞳をまじまじと見たことは、なかった。
その瞳に冷たさを感じるのは、その無機質な感じが人形のようにも思えたからかもしれない。温度のないまなざしは痛くもあり、怖さもある。しかし、人形と違うのは、その真剣なまなざしには意志の宿る命を感じ、それが優介の心をとらえて離さなかった。それにもかかわらず、そこにはただの無があって、善悪のない澄み切った何かにも思えた。
流々が言葉を発する刹那の間に脳裏に展開していくその瞳はあまりにきれいで美しい別次元の純粋さを孕み、それはこの世のものとも思えないものだった。その圧に、優介は圧倒されていた。
「何を写そうとしているのか、わからない」
そうして発せられる声も熱を持たない。しかし、熱のないその透明感のある声色と、言葉たちは、何の抵抗感もなく心に響いて入ってくる。
「からっぽ。心も写せていない。空は、存在しないもの」
淡々と、端的に語られる言葉は、正確に何を伝えようとしているのかもわからず、ただそれ自体が耳に届いてくる。その内側にこめられた想いは想像と解釈の広がりを持って理解しなければ、伝わるものはないのかもしれない。しかし、優介に届いているのは、ただその言葉そのものだった。
「空が、存在しない?」
それに思わず反応し、口から疑問が飛び出てしまう。
その真意を測ることはできなかったが、その言葉だけでもちょっとした衝撃を受けた。不意を食らったように認識が雑多に混同し、正常な判断がさらにできなくなる。冷え切った疑念は頭の中から体の中にまで流れ、再び凍ってしまったみたいに動けなかった。頭の中ではいまだに流々の声が残響して鳴りやまない。
「空は、過去から続いている、想いたちが積み重なった今も生きる化石のようなもの。それが幻や蜃気楼のように映るだけでは、何も写せない」
それは一瞬のゆらめきだったかもしれない。空の話しをしているうちに、これまで熱の見られなかった流々の声に、少しばかりの熱が見えた。が、それは瞬く間に溶けてしまった。優介はその気持ちの入りにわずかながら感じるものはあったが、違和感とも捉えられない微妙な語気に、気づくことはなかった。ただ、その言葉だけが心に響く。
「それは、どういう……」
流々はそこで、ぴたりと止まった。誘導するように視線を空に移すと、つられて優介も空を見つめる。そこには、光の透いた空が広がっている。かすれるような雲はそれこそ絵筆で描いたようにも見え、時間と共に移ろっていく。
そのまま空を見つめているうちに、ふいに空から流々の瞳が現れた。いや、それは、現れた、というよりは、空そのものが瞳であるような錯覚を受け、実際に目にしているというよりも、そう感じる、というほうがただしいかもしれない。
優介は、空を見ているのか、それとも流々の目を見ているのかわからなくなり、吸いこまれていきそうな意識の中、空に放り出されてしまうような感覚があった。それでもなお、悠然とたたずむ流々の姿に地面を見失わず、気がつけばきちんと足をつけて立っていた。
そうして、改めて流々と目が合うと、思わず びくっ 体が反応する。
それは先ほどまで見ていた光景と同じ、その瞳はまるで、空のようだった。流々の瞳から空が覗け、青い虚空を生み出して儚くも沈んでいく。
「何か、見える。何が、見える。それを写し取らなければ、おもしろくない」
空から落ちてくるような声に、ただただ耳を澄ましていた。
一通り言い終えた流々は踵を返すと、そのまま行ってしまった。
引き止めることもなく、何を言うこともできず、その姿を見送っていく。その姿が見えなくなってからも、しばらく動くことができなかった。いや、いまだ見つめられている。遥か高みから、悠々と。
何気なく、返されたスケッチブックを開き、目を落とす。そこには空が描かれている。しかし、それは何も語らない、空虚なものに見えた。
空を見上げると、流々の言葉が残響して鳴り止まない。移ろい続けていくその絵からは、流々の瞳も見え、声も聞こえてくる。心に沁みこみ、しかし何の形にもならずにもがいているようだった。
優介はスケッチブックを閉じ、しばらくそこで空を見ていた。空を見つめながら、その瞳を合わせ、その声に耳を、傾けて、いた。
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いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。