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糸 ~姉~

「ねぇ、容子は幽霊がいるって信じてる?」

 唐突に姉はそんなことを聞いてきた。何の前触れもなく、本当に突然。それまで何を話していたかなんて関係なく、ただその場にあるだけのよう。姉はいつもそうやって話しかけてくる。まるで突風のようだ、避けようもない。

 頭の中では、通り過ぎた姉の言葉を追いかけるように、再び声が聞こえてくる。改めて聞こえた質問の意図がわからず、立ち止まる。ひとまず避けようもない風を身に受けながら、その流れを見つめてみた。どこに向かっていくのか、辿っていけるのか。けれども、風の流れなんて見えるわけもなく、その行先はわからなかった――言葉を反芻しながら、耳だけがやたらとよくなったみたいに、心臓の音が空間にまで鳴り響いているように感じる。ついに、私は、どうしたらいのかわからなくなって、どうにか首を振ってみた。

 そんな私を見てどう思っているのか、姉は意味深に頬を緩ませながら、にたにたと笑みを浮かべている。

「そう、容子はいないと思うんだ」

 影が焼けついたように、固まってしまった。心がざわざわと落ちつかない。

 そんな言い方をするのはつまり、姉は幽霊がいると思っているのだろうか。私は姉も、神だとか霊だとか、現実にいるのかどうかわからない、そんな存在のぼやけたものがいるなんて、信じているとは思っていなかった。

 疑問はどこからか不安を呼び、不安は言葉に形を変えて、私の意図しないところで漏れ出してしまった。はっとして、姉を見る。この不安はどこからくるのかわからない。気がつけば背後にやってきて、私の心臓を――そう、不安をむさぼり答えを求めてさまよう亡霊が、べっとりとした手で私の心をつかんでいるに違いない。そうでなければ、私はどうしてこんな不安を感じているのだろう? 私の背後にはその亡霊がいて、想像もできない笑みを浮かべながら私の心を抱いているのだろう。気持ち悪い、ただ、気持ちが悪い。姉は、姉なら、こんな不安は感じないのだろうか。

 相変わらず姉は意味深に頬を緩ませて、遠くのほう――それはなんだか私の背後に思う――を見つめている。悩んでいるような、初めから答えなど決まっているような、その間とゆるぎない瞳が相反する状態を生み出しており、どちらであるかはきっと、箱の中の猫のみが知ることなのだろう。ぽかんと、置いていかれた気持ちになる。

「私は信じているわ」

 どちらにしても、私は、何も言えなかった。どうして? とさえ聞けずに、聞く意味も見えずに、ただただ頭にかすみがかかったように、暗い雲が私の心を埋め尽くしていた。私は、そこから動けなかった。

 だんまりな私を非難することもなく、かといって助け舟を出すわけでもなく、姉は優しげな眼差しを向けていた。その瞳があまりにもまっすぐで、重たかった。視線も逸らせず、体が重たくなっていく。亡霊が、私の背中に負ぶさっているようで、体も気持ちも、重い。一度意識してからは、震えが止められなかった。

 目の前で黒髪がゆれた。と感じてから、姉が立ち上がっていることに気がついた。ひどくスローモーションな動きに、鮮明な姿が映る。窓枠に、手を置く、姉。入りこむ光さえゆっくりと映るように、少しずつ身を隠していた。遠くのほうから少しずつ。夕暮れが、さみしそうに――頬を染めている。

「だって、」

 ふいに、時間は動き出した。

「誰もいないことを証明できていないのなら、どこかにいるかもしれないし、もちろんいないかもしれないけれど、いる、って思っていたほうが、なんだか楽しいじゃない?」

 はにかんだその姿が、どことなくものかなしい ように見えるのは、夕暮れが姉の姿も隠そうとしているからだろうか。かすかに、少しずつ、今にも溶けこむように、どこか消えてしまいそうな――きれいだ。吸いこまれていきそうなほど、きれい。

 わからない、どうしてそんな笑みを浮かべることができるのだろう。わからない。私には、見えない。疑問に感じないのだろうか? こんな不安は感じない、のだろうか?

 私もいつか、こんなきれいな、消え入りそうな笑みを浮かべながら、話しをすることができるのだろうか。不安も何も感じずに、こんな、きれいに。

 心から絞り出された毒素が血液に乗って、頭までめぐる。震えはいまだに止まらない。姉の笑顔を見ているうちに、地面から遠ざかっていくような、そんな錯覚を覚える。いっそ何も見えなければいいのに、と思いながらも、目が離せなかった。それが真実みたいに。姉には、私がどう見えているのだろう。

 あら。と慌てて口元を抑えると、恥ずかしそうにまた頬を染めながら、もう一度時計を確認している。

「夕飯の準備を手伝わないと。できたら呼ぶから、待っていてね」

 そういうやいなや、風のように部屋から去っていく。取り残された私は、姉のいた余韻を肌で感じながら、静かに沈んでいく心を見守っていた。私は立ち上がって窓際まで行った。そこからは、姉と同じ景色が見えるはずだった。姉は、何を見ていたのだろう。

 振り向くと、そこには誰もいなかった。

 ベッドに横になり目をつむる。先ほどまであたりを漂っていた感情も、不安も、疑問も、すべて心の奥底へとしまいこんで。もう出てこないで と、願い、鍵をかけながら、切に。
 

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いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。