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言葉を理解する
言葉を理解する。
それはいったい、どのようなことであろう。
言葉を操る、でもいい。
それはいったい、どういうことであろう。
こうして日常的に会話をし、意思疎通をはかり、他者とのかかわりや社会とのかかわり、もしくは自己との対話でもいい、それがどのような形であれ、言葉、というものを使っている。
私が使う言葉と他者が使う言葉が一致するからこそ、意思疎通をはかることができる。
この場合の言葉は、言語、ではない。
例えば、言語の違いがあれど、それをもって意思疎通がはかれるならば、何の問題もないと思う。
仮にひとりがフランス語、ひとりが英語を話していたとして、お互いに共通認識ができていれば、会話は成り立つ。この場合、言語は違えど言葉は一緒なのだ。
ある一定のルールに基づいて言葉が成り立っている以上、そのルールを理解しない、もしくは外れているものは、相互理解、という観点から考えれば、言葉、として成り立っていない。
しかし、一種の暗号のように、特定のものとのみ意思疎通をはかれるような言葉も存在する。それは何も口から発せられるものだけではなく、身振り手振り、音、文字、その他さまざまあるであろう。
もし、その意味を理解しておらず、けれども会話が成り立つ場合、それは言葉として成り立っているであろうか?
思考実験における、中国語の部屋、では、指示された通りに文字を書くことで、その意味自体は理解できていなくても会話が成り立っている、という現象が起きている。
感覚的に言えば、意味をまったく理解していない以上、言葉として成り立っているとは思えない。けれども、会話の成り立つ、という矛盾。
言葉とは、理解せずとも成り立ってしまうものなのだろうか。
ネット上で検索をすれば知らないことでもある程度知ることができてしまう世の中で、本当にそれを理解して表現しているものはどれだけいるのだろうか。
それは、誰の言葉? 自分の言葉? 自分が感じ、考え、咀嚼して、伝えられているのだろうか?
言葉の袈裟よりも、その内側にこそ、大切なものがある、と。
私はそう思うし、その中に、美しい輝きがあると、信じている。
少し、だいぶ、脱線したけれど。
ある一定のルールに基づいている以上、変化や失われていく言葉も、多くあるであろう。
そうした変化や失われていく、または生まれていく言葉たちの中で、私たちは意思疎通をはかり、生活をしている。
私たちが意識していきたいものは、言葉そのものよりも、その裏、内側に隠された想い、考え、魂を感じ取ることだと思う。
言葉を理解する、ということは、そこに秘められた想いを理解する--理解しようとする心なのだと、私は思う。たとえそれがわからなかったとしても、その声に、耳を傾けること。
言葉とは想いなのだ、想いなのだ、と。
ゆえに、それを理解することは難しい。
そもそも、本当に、理解することはできるのだろうか?
そこに内在する困惑と葛藤、深い絶望、そんな茨の道を進み、もがきながら表現される、想い。
言葉とは、なんとも、なんとも、難しいものだろう。
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