特別なものに
皆既月食が先日ありましたね。
月だけではなく、惑星(天王星)も喰べられてしまう、というたいへん珍しい現象(正確には同時にあるのが何百年かぶり)ということは、自分の足で調べたわけではありませんが。
話題にもなりましたし、ニュースにもなりましたし、多くの人が関心を寄せて見聞きしたことでしょう。
けれど、その次の日もなかなかによい輝きの月(十六夜になるのでしょうか)でありましたが、それを見た方はどれだけいるのでしょうね。
何となく、特別なものに目を向け過ぎている、そんな気がして、言葉を紡いでみましたが。それも杞憂に終わるかもしれません。
当たり前に過ぎてしまう日々の過ごしにほんの少しの刺激を求めて、特別、感、に、魅了されてしまうのも致し方のないことかもしれません。
けれど、そんな当たり前の過ごしの中にも、ほんの少しの刺激は潜んでいるもので、密やかな息遣い、当たり前に堂々とした姿、いつもそばにいるもの、ちょこんと顔を見せるもの、きっと様々あることでしょう。
そんなことは知っている。そんなことわかっている。
そうだと、思います。
だからこそ、特別なことだけではなく、そうした当たり前に過ぎてしまう日々にも、目を向けてみるのはよいことなのかなぁ、なんて思います。
老婆心ながら、お伝えさせていただきました。
以上、私の言葉を、お送り致しました。
ご清聴のほど、ありがとうございました。
そうして周りを見回してみても、誰ひとり立ち止まっている人もいなければ、きっと聞いている人もいなかった。耳には入っているかもしれない。けれど、それは言葉としてではなく、ただの背景だと思う。
もしも言葉が鼓膜をゆらして脳に届いた方がいたとしても、おかしな奴、くらいにしか思われなかったであろう。
私だって、そう思う。自分ではなく、他の人が同じようなことをしていたら。
ひとつ、運がよかったことを言えば、うるさい! と邪魔をされないことであった。誰もが静かに、通り過ぎていくだけであった。
片づけをしながら、思わず笑ってしまう。
特別なことではなく、なんて言いながら、こんなこと、特別なことでなくて何なのであろう。
その矛盾を孕んだ言葉と想いが混ざり合い、結果産み落とされたものは何なのであろう。
終わってみた後でも、そんなことわかりはしなかった。
吐いた息が天に昇る様を想像しながら、儚げな光を届ける星たちとかすかな月の灯りが霞んでしまうのを感じた。
そうして視線を下げたその先に見える人々の顔は、みんな同じ表情をしていて、きっと私もそんな顔をしているんだろうな、と思いながらも、今日、いや、この瞬間だけは、別の、ある種満足をした笑みを浮かべられていることを、私はイメージした。