彼らを わくわくエンジンを搭載した ジェット機へ
私はつまらない人間だ、といつも思う。
自分でそんなことを言ってしまうくらい、つまらない言葉はないと思う。けれど、事実、そうだ。
生活はお世辞にも安定しているとは言えないが、食って生きていく分の稼ぎはあるし、趣味だって熱中しているほどのものはないが、ある。
それでも自分を「つまらない」と断定してしまうのには、どんな理由があるものか。
テレビを見て、ラジオを聞いて、スマホを開いて、人の話しを耳にして、あれだけの熱量を持っている人たちの姿を、声を、肌で感じながら、何も持っていない自分の掌を見つめて空しさも感じない。
心かーーいや、心が動かされるほどの何かを、私は感じたことがない。楽しくないわけではなく、笑いもするが、私は心が満たされるような感覚を、得たことがないのだ。
私は別に、生きていくのに何が困っているわけでもない。趣味のサイクリングに休日出かけて、汗を流して家に帰り、シャワーを浴びて、ビールを飲む。それだけで満ち足りているーーそう感じはするが、それはもはや習慣と呼べるものであって、心が動いているわけではないことを私は知っている。満ち足りている、というのは欺瞞であって、本当はただのルーティンによる安心である。
そんな生活も、もう何年経ったであろう。
機会あって、転職をすることにした。発達障がいをお持ちの方を対象とした、放課後等デイサービスに、移った。
その放デイでは、知的面に特性はほとんどなく、自閉的なコミュニケーションでの特性やAD/HDの方、緘黙等、いわゆる軽度の発達障がいをお持ちの方が多くいるところだった。
知的面ではほぼ特性もないため、学校でも普通級に通うような方が利用しており、外から見ているだけでは特性もわからないものだった。
しかし、その放デイに勤めるようになってから、私の生活は一変した。
いや、一変した、と、言ってよいものだろうか。
私の心は相変わらず何も産まない凪いだような水面であった。しかし、そこに石を投ずる者は紛れもなく私で、それも私の水面にではなく、その子どもたちへ、であった。
それは、これまでの私にはない経験だった。
嵐のように、子どもたちから積極的にかかわりを求められ、その応対をしているうちに、子どもたちの心に何かが宿ったように目をキラキラとさせて、旅立っていく。ある者は創作に、ある者は鬼ごっこに、ある者は将棋に、ある者は勉強に……更なる力を持って、そこに向かう姿を見つめるようになった。
私がこれまで得たり、取り組んだりした知識や経験をかいつまんで伝えることは、彼らにとって、わくわくとするようなおもしろいものであったらしい。「わくわくエンジンだ!」とうれしそうに話す子どもたちの姿が、本当にエンジンを積んだジェット機のように力強く、たくましく変化する様子は、私にとっても快いものであった。
私はそれから、より彼らがどうしたら、わくわく、とする中を考えながら、取り組む日々を過ごし始めた。
どんな言葉なら伝わるだろう。
どんな方法なら伝わるだろう。
彼らの話しを聞きながら、何を求めていて、どんなことに困り、どうしていきたいのか。それを踏まえた上で、私の中にいるものたち、それらの中からどれが一番必要なものであるか。
それぞれに合わせて吟味し、伝えていく。
それを受けて、満足したように力を蓄えていく彼らの姿は、私にある一つの考えを見出させた。
私自身が満足し、心掻き立て、さまざまなことに取り組む必要はない。むしろ、この凪いだ心のままこれまでの私の知識や経験を伝え、それらを乗せた彼らのジェット機が飛び立っていくほうが、きっとおもしろい世界へ連れて行ってくれるであろう。
私が、わくわくする必要はない。
私が、彼らをわくわくさせるのだ。
そうして、わくわくエンジンを搭載したジェット機で、これまでつまらない私の中にいた知識や経験たちを、私ではないどこかへ。おもしろい世界へ連れて行ってくれることを願いーー。
初めて、私の心にも何かが灯り、心が脈動するのを感じた。