遺書に何が書けるだろう
私は今、初めて、遺書を書いている。
初めて書く、という言葉の選択に、我ながら言い得て妙な、本当に妙な、感覚になる。
特に何か、理由があったわけでもない。
それは天啓とでも言うべきものなのか。ふいに思い立っては、何に使うとも知れずに積んであるノートの一冊を手に取って、ペンを握ったしだいである。
死が私の周りに近づいてきたわけではないと思う。
それは自然に湧いて出た疑問ではあったけれど、身近に死を感じたことはかれこれ六年ほど前の祖父が亡くなったときくらいで、誰かが病に罹って、とか、友だちが死の淵までさまよった、とか、そんなこともなかった。
そうして、自殺を考えているわけでも、ない。
こうして遺書に向かい合うと、よくわかる。
自殺をするさいに、遺書を書くという行為は、それほど伝えたい想いがあるからこそであって、それがない者にはきっと、遺書を書くなんていう発想にはいたらないであろう。
もしかしたら、自殺に遺書はつきものであって、礼儀作法なのかもしれないが、そんなことはきっとないし、そんなものが礼儀、マナー、ルールになっているとしたら、改めて冷静に見直したほうがいいと思う。
かくいう私は、対して何か伝えたいものがあるわけでも、死に向かって……いや、正確には、生きている以上、死に向かって歩んでいることに違いはないのだけれど。自分から命を絶つようなことを今、考えているわけではない。
それなら、なぜ、遺書を書いているのだろう。
死が万物の着地点であるならば、わざわざ何かを残す必要はない。と、考えるのは、私が次につなげたり、誰かに何かを託したりするような人間ではないからであって、その行為そのものに意味を見出そうと思えば、いくらでもある。子孫へ、社会へ、世界へ、私の想いを、資源を、なんでもいい、残したい、託したい、そんなことを考える人も、多くいるだろう。
死が着地点でないとしたらーーそれは、証明の難しいことではあるけれど、この世に何かを残す人は、どれだけいるのだろうか。
多くの歴史が語るように、あの世へお供するため、不足にならないため、犠牲を払うことも厭わずに捧げるようなこともある。それが叶うと、おそらく、信じて。
この世、あの世、の概念すら、言葉が生み出す幻想に過ぎないというのに。
あぁ、話しがそれた。
遺書の話しだ。
遺書を認めた後、私はこれをどうするだろう。
いつでも身につけておいて、何かあったときにすぐに私の意思を伝えられるようにする?
部屋のどこかに置いておいて、万が一のときに誰かが見つけてくれるのを期待する?
それとも、破り捨てる?
ボトルメールにでも……。
どれも、しっくりこない。
さて、ペンも止まってしまった。これからどうしようか。
そもそも、ほとんど進んでもいないのだけれど。
初めて書くのならこんなものか、とひとりごちると、何となく妙な気持ちになる。ふいに、思い立って、
私はペンを置いて、ノートをそのまま開いておくと、窓の外に、身を乗り出した。