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寂しさの正体。

去年の11月、頚椎の手術をしたら後遺症で左腕に力が入らなくなった。ヒジは自分で曲げられないし、肩からダランと垂れ下がっているだけになった。

突然のことだった。そのときから彼は寄り添ってくれた。仮に「ヒダリー」と呼ぶことにするが、ヒダリーさんがその日からパーソナルトレーナーのように現れて、今も一緒に暮らしている。

昨日、こんなつぶやきをした。

あれほど不自由だった左腕が、日に日に、回復してきているのです。周りも忘れるほどに自然になってきています。それが、なんだか寂しく思うのは、どうしてでしょうか。

私は、この寂しさの正体を、「甘えられなくなること」「逃げ道がなくなること」「生身で戦っていかなくてはいけないこと」だと思っていた。それは硬い鎧をまとったようなもので、それを脱がなくてはいけない心細さなのかと思っていた。不自由さを言い訳にしながら生きてきたわけでもないけど、きっとこれが無くなるから寂しく想うのだろうな、と考えていた。

そう考えながら、つぶやいた。

すると、つぶやきに、たくさんのコメントをいただいた。(ありがとうございます)

もちろん上述の甘えられなくなる寂しさもあるだろうが、おそらく大きいのはヒダリーさんとのお別れが近づいていることだと思う。一緒に戦ってきた仲間として。不自由な左腕を、自由にするため頑張ってきた。歩んできたこの物語が終わりを告げようとしていることに、寂しさが浮かんだように思う。

あの日から、私と家族とヒダリーさんの生活は続いている。そしてまだ続く。でも、ヒダリーさんが、『夢をかなえるゾウ』のガネーシャが去るときみたいに、少しずつ薄くなってきているように見える。お別れは近づいている。

年内いるかどうかだろう。

一緒の時間は楽しかった。不完全っていとおしく、言うこときかない子ほど可愛い。そんな子を奮起させ、ぐんぐん成長させていく日々は、本当に楽しかった。

もう少し一緒に頑張ろうと思う。

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なさじ
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