【読書】中高生のための文章読本 など
主な文献
1. 戸井武史編. 群像 第79巻第10号. 2024
2. 梅田卓夫・清水良典・服部左右一・松川由博. 高校生のための文章読本. 筑摩書房, 2015
3. 澤田英輔・仲島ひとみ・森大徳編. 中高生のための文章読本. 筑摩書房, 2022
平成をやりたいと長いこと思っている。後・戦後なんて冴えない時代区分を戦前ともいわれる今から見直すべきだと思うから。するとどうやら加藤典洋なる重要人物を避けることはできないらしい。
群像という講談社の歴史ある文芸誌にその加藤典洋とはどのような人だったのか綴る、長瀬海「ぼくと「先生」」が連載されている。文芸誌を買うのは保坂健二朗の連載を読むために買ったすばる以来だ。書き手・出版・読者の間に介在する独特の生々しさが連載にはある。決して良くない紙質が、本を手にとって空の下へ出かけようという気を奮い立てる気がする。
朝、少し遅く職場に着いたので放り出すように机へ群像を置き慌ただしく朝礼を終えると学年部長から「お?買ったんだ群像、先月の?」と話しかけられ、全く想定していない事態にドギマギしてしまった。学年部長として接する時間が長すぎてほとんど意識していなかったけれど、学年部長であり国語の先生であり演劇部の顧問なのだ。「国語科の新聞図書費で買ってるんですか?」と聞くと「個人的に月に1冊どれかを選んで買う、群像は悩んだけど買わなかった」とのことだった。選ぶとは5大文芸誌、群像・すばる・新潮・文藝・文學界のなかから1冊ということだと思う。国語の先生だなぁ。余談だが、プライベートでは概ね電子書籍しか買わない私だが、こういった邂逅は紙の本でしか起こり得ないのでなかなか捨てたものではない。
この号の群像では濱口竜介という長編映画監督の特集が組まれていて、親密さ、あれは美しいよ、と言っていた。丸子橋のシーンのことだ。濱口竜介「親密さ」2012は4時間15分に及ぶ恐ろしい上映時間と未ソフト化、未配信の制限があり、観た人に出会うだけでも喜びがある。その第一部のクライマックスが日本映画史に残る美しさと言われているカットだ。多摩川に架かる夜の丸子橋の暗闇をゆっくりと歩く男女が、すれ違いつつも互いに寄り添おうとする。ああいうのはやめたほうがいい、君はいつもそうだと、街頭と車のライトだけが輝くなかで慎重に、時に無神経に、言葉を投げ合う。遠くから2人の後ろ姿を眺めるワンカットの長回しが、気がつくと橋の真ん中を越え、渡り終える頃にちょうど夜が明けてやっと互いの姿が見えるようになるのだ。とんでもない映画の作り方をしている。
私自身、親密さは2年に及ぶ浪人生活の終わりに、今はなきオーディトリウム渋谷のオールナイト上映で観る機会があった。高校時代の友人達と久しぶりに会い、中高時代に散々遊んだ渋谷で雑に飲んだ後のこと。スペイン坂の人間関係でこのコーヒーは泥水みたいだと1人がいうので、挽いた豆にそのままお湯を注ぐのが原産地に近いオスマン人の飲み方だ、豆が沈むのを待って飲むのだ、ヨーロッパ人が豆をフィルターで濾してクリームまでのっけるような野暮なことをするのだと中学の世界史で習った話をするとその場の誰も覚えてなくて驚いた。みんなペーパーテストが得意で記憶は薄く、私だけ記憶がよくペーパーテストは苦手なようだ。医者になった同級生と話しててよく思う。その時は1人だけ「なるほど、ウィーンまではこの飲み方が来ていたのだな」と縦に細かく揺れながら頷いていた。授業の記憶はないが知識は血肉になっている。その友人がヤバい映画を観に行くというので、東急本店からラブホ街に続く坂を登ってやや居心地の悪いフロントで上映を待つ。あ、男子校ですよ。
一応、文化祭では中3から高2まで演劇をやっていたし、東横線や武蔵小杉、丸子橋など馴染みの地域が舞台でもあり、加えて同時上映「永遠に君を愛す」で棒読みの主人公男性がどう見てもすいどーばた美術学院で「動かなくても 結構です」という廃品回収車の放送を背景にヌードモデルをするシーンがあり、劇場でただひとり笑っちゃうほど当事者性を感じた。すごい映画を観た、いや体験した(異常に顔アップが多いのでVR映像のような体験になる)、という疲労感と眠気を抱えて文化村通りをノロノロと駅に向かって歩くと、ちょうど朝日ができたばかりの渋谷ヒカリエに反射していて、映画にリンクしているのだった。美大受験おつかれさま、と祝福されているような気がした。あれがぼくのブルーピリオドだったと思う。読んでないけど。
その後、武蔵野美術大学に濱口竜介が来てくれて軽くお話したり、本郷での上映を観に行ったり、その時に上映を仕切っていた男の自主映画ゼミに出向いてみたり、後にその男の名前がドライブ・マイカーでデカデカとクレジットされているのをみたり、父の還暦祝いに長年の愛車だった赤のSAABのミニカーを探したり、なんだかずっと縁のようなものを感じている。
すごくすごく掻い摘んで朝の忙しい時間にこんな話を学年部長とした。良い職場だ。
閑話休題。加藤典洋は早稲田大学国際教養学部の2年生向けの授業で言語表現法という日本語で行われる演習の授業を開講していた(1そうだ。セメスター制により半期。専攻の特性上様々なバックグラウンドをもつ学生も多いなかで選んだテキストが「高校生のための文章読本」や「高校生のための批評入門」だという。早稲田大学国際教養学部の学生に会ったことは多分あんまりないが、なるほど、高校生と接していて抽象度の高い文章を読む力が極端に低いな、というのは常日頃感じている。彼らにとっての現代の国語のテキストは、知らない言葉についた注釈にも知らない言葉が使われているように見えるはずだ。それでは学習の意欲が削がれるのも無理はない。
学習者と専門家が読むべきテキストは違う。専門家は知の高速道路、圧縮されハイコンテクスト化された情報で時間効率をあげる。他方で学習者は、知らない言葉の海に放り出されるようなものなのだから、なるべく低次元で、なるべく限られた数の、なるべく多様な分野の言葉に触れる必要がある。学習者とはもちろん年齢のことではない。老獪な研究家であっても、非専門分野においては高校生と同じように学習者なのだ。
だから文章読本という、良質なアンソロジーは年に数冊触れるべきだと思い、群像に指を挟みながらもう一方の手で「高校生のための文章読本」をポチッた。子どもに貸したりコピーしたりする可能性があるものに関しては紙の本で買う主義だ。そして読書中に挙げられた気になる文献は直ぐさま購入ページを開かない限り、永遠に買う日は訪れない。なお私が高校時代にお世話になったのは「高校生のための現代思想ベーシック 評論入門」という本だった。色弱には何色か説明しづらい表紙の小論文集は、抽象度の高い文を読むためのはしごがたくさん収まったような本だった。
「高校生のための文章読本」の購入手続きが一分で終わったあと、なんの気なしに出版年などをみようとスクロールすると思いがけない名前があった。先日のnoteにも登場した、高校生がちょっと背伸びをして読む本という絶妙なラインの提案が異常にうまかった国語の先生が「中高生のための文章読本」という本の筆頭編者に(五十音順?)になっているのだ。そういえば数年前に誤操作と区別のつかないタップで開いたFacebookで告知をしていたかもしれない。でも、今なのだ。この本が私に会いに来たのだ、と笑った。
澤田先生の授業があったから多感な時期にゼロ年代最高のSF作家、伊藤計劃「虐殺器官」「ハーモニー」を読めたし、サグラダファミリア主任彫刻家の外尾悦郎の「ガウディの伝言」という新書もみんなに紹介できたし(中2の地理の夏休みの宿題で買った本の再利用だったと思う笑)、なにより中1の夏休みの宿題がTOKYO BOOK MAPという本を握りしめて渋谷を歩いてレポートしろというものだった。暑い夏に外へでなきゃいけないからすごく嫌な宿題だったけど、後年に鉄緑をサボる場所のアテが沢山あったのはあの宿題のおかげに他ならない。
「中高校生のための文章読本」はやはり広い分野の本が挙げられている。全6章からなるが、もしかしたら日本十進分類法に従って、10章に分けて紹介したかったんじゃないの?なんて思ったりもする。そこには大好きな郡司芽久. キリン解剖記. ナツメ社, 2019 もある。思えば私は読んで面白かった!という本を薦める友達をつくる努力を怠ってしまった。もちろんSNSにはレビューを流すのだが、誰にどう届くかわからない一方的なボトルメールだ。プライベートに消化するしかなかったテキストが、まるで教科書みたいに「「頭を使って解剖する」とはどのようなことか、説明してみよう」と手引きされているのである。亦楽しからずや。
それから穂村弘. 短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために. 小学館文庫, 2013 で紹介された「クビレのはたらき」という概念も衝撃的だった。初見で戸惑ったが、短歌が壺や瓶のような回転体だとするならば、多くの人の広く共感を呼ぶ一般的な言葉のあいだに、本人が体験したわけでもない唐突で一般的でないことばが挿入されることで名作になるというのだ。説明が逆プレバトというか、名作をこう改変したら駄作になる、という例を挙げるスタイルなのも面白い。こういう、自分じゃまず手に取らない、なぜなら私は今すぐ歌人になりたくないからこの本は私のためではない、本に水平に手が届くのが文章読本のよいところだ。
先の群像だって文芸誌だというのに映画の特集をしている訳だし、ある人にとっては東浩紀の言うような誤配を生む媒体として機能したに違いない。あと穂村弘もこの号で対談してる。4000字になってしまった。一旦終わりにします。