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これが何の数字かと言うと、Amazonが提供しているオーディオブック「Audible」における『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下巻の総再生時間である。あまりにも途方もなく感じられるし、いったいアニメ何話分に相当するのか換算するのも煩わしい。けれど、実際に「読了」した今、そこにあるのは、自分が過ごしている日常の中からそれだけの時間が削り出されたという厳然たる事実だ。
無料キャンペーンに合わせてフォロワーさんが投稿していた丁寧なプレゼンに背中を押される形で登録してみたところ、見事に生活にぶっ刺さってしまった。「Audible」のCMで犬が喋っている内容は概ねその通りだったと言わざるを得ない。まぁ、当然と言えば当然なのだけれど、日常行動コマンドの割と広範囲に「ながら」の属性を付与できるのが大きい。そう言う意味では時間を「削り出した」と言うよりは、「押し広げた」という感じかもしれない。
読書の際に「文字を頭の中で音読するかどうか」でタイプが分かれるらしい。私からすれば「え?しないの?」という感じだけれど、速読を得意とする人は、視界にある文字を広く捉えて、音を介さずに認識するから速いのだ、という話を聞いたことがある。確かに頭の中で音読すると時間が掛かるし、それが読書を遠ざける一因にもなってしまっている。けれど、そうしないとせっかくの文字を取り零してしまうような気がして、十全に読み取れないのではないかという不安がつきまとうのだ。
つまるところ、「Audible」は「頭の中の音読」を代行してくれる存在であり、そしてそれは、決して躓いたりしない。とにかく前方へと進み続ける。脳から溢れた文字を多少零してしまったとしても、大勢にはそんなに影響がないことをゆっくりと確実に教えてくれる。いちいち誰かの勝手な気持ちで止まることもないし、ともすれば気づかないうちに乗りすごしている。結果として、効果としては速読へと近づいていくことになる。
しかし、時間は時間で平等であるからして、ワンコンテンツにかかる時間が膨大であるという側面は変わらず存在している。それが妙に他では得られないような愛着を生むのだった。プレゼンに従って『プロジェクト・ヘイル・メアリ―』含めて3作品ほど聞き終えたけれど、記憶の解像度がやけに高い。『ラブカは静かに弓を持つ』で浅葉が激昂した瞬間のいたたまれなさは、個人的なトラウマと錯覚するほどに生々しい。触れた側から忘却の彼方に葬り去られる作品があることを思えば、費用対効果はむしろ高いのかもしれない。ワイヤレスイヤホンの起動音や接続音がロッキーの声に聞こえるくらいには、長い時間をともに過ごしている。
「Audible」の存在を認識していながら何故手を出せないでいたかと言えば、それはひとえにある種のプライドによるものだと思う。「本が好きである」ということを拠り所にして形骸化させてしまった者の矮小な。だってそれはかつての「読書家」としての敗北じゃないか。紙と電子の対立はまぁ、よくあることとして、文字と音にもそういった壁はあるようで、どちらにせよ、手段はどうあれ、結局のところ自分の内側に物語が残ったかどうかでしかない、と今では思うようになった。
積み重ねた時間が「物語」の形を伴って残る、というのは、冒頭にも触れた通り事実なので、それは、ありとあらゆる場面で膨大なアーカイブに晒され続ける現代において、恐れずに一歩を踏み出す際の自信のようなものにもつながっている気がする。「時間がない」と言いながらも時間はあって、何事も触れるのに遅すぎることはない、というような。90巻以上出ているからもう一生読むことはないと思っていた『弱虫ペダル』も、数ヵ月かけて「待てば無料」で削り取ることで、今では最後のインターハイをともに走っている。怯むな。一歩を積み重ねろ。こうした体験がどこか教訓めいて刻まれることで、もしかしたら今後の人生を左右していくのかもしれない。