食でごきげんになるには「縦のつながり」を意識しよう。チームの目線がカチッと定まった話
「月に1回のケンタッキーが大好きで自分のご褒美になっている。これはご自愛だと思うが、感覚的に”愛食”ではない。」
この感覚、わかりますか?
これは先日「愛食言語化プロジェクト」が発足したことをnoteでご報告させていただきましたが、この発言はそのワーキンググループのメンバーの一言です。
これは愛食?それとも違う??
「愛ごといただく食体験」とゆるく定義してきた愛食をもう一段深く定義したい。
その声にチームaiyueyoの仲間が「一緒に考えよう!言葉にしよう!」と集まってくれ、愛食言語化プロジェクトはキックオフされました。
みんなの感覚や声を集めながら進めようということで第一回目のワークショップが先日開催されました。
それぞれが考える「愛食」と「愛食ではない」と思う食事を持ち寄って、一覧しながら話した回。
いろんな意見が交わされる中で大きく2つの発見があったのがとても大きかったと思うので、このnoteではその2点を共有させてください。
愛食≠ご自愛食
まずここがかなり大きな発見だったのだけど、愛食とご自愛食は=ではないということ。もう少し正確にニュアンスを言うと、愛食はご自愛食の一部だが、すべてのご自愛食が愛食ではないと分かりました。(必要十分条件で書きたかったけどわたしの頭では混乱して書けなかった。笑)
というのも今回、「なんか愛食っぽくはないけどご自愛ではある食ってのがあるぞ」ということが浮き彫りになったのです!具体的にその時上がっていたもので言うと、「月に1回のケンタッキーが大好きで自分のご褒美になっている。これはご自愛だと思うが、感覚的に愛食ではない。」とのこと。
この手の話がこの流れでぽこぽこぽこと出てきました。なんとなく愛食と聞くと「ご自愛できる食かな?」と思うのだけど、それでは条件が緩そうだ、ということが分かりました。
横のつながり、縦のつながり
では、さらにどんな条件が愛食には必要なのか。その時話題になって面白かったのがつながりの横、縦の話です。
集めてきた愛食エピソードの中には、「その時友達や大切な人が周りにいてつながりを感じられた食は愛食」というものもありました。
一方多くを占めていたのは、「この人が作ってくれたと分かっている食をいただく」「自分が育ててた食をいただく」というニュアンスが含まれるもの。
そのエピソードを見ながら話し合うことでその食事があることでその場に形成される横のつながりだけではなく、作った人、畑、食材、料理人などその食事ができる前にいた人たちとの縦のつながりが感じられることが愛食には必要なのではないか?という話になりました。
さらには、その先の働く人、畑の生き物、食べた人の健康の持続可能性という、過去だけではなく未来方向にも通じる縦のつながりも必要なのではないか、というところまで話が発展したのはとても面白かったポイントでした。
いのちを最優先に生きる、愛本主義の提案装置
ご自愛できる食の中でも、循環していくいのちの縦のつながりを実感できる食が愛食なのではないか。
ここまで最初のワークショップで仮説をたてることができました。(1回のワークショップでここまで!すごいぞ!!)
思えば、そもそもなぜ愛食と言い出したのかというところで、わたしたちが体現したいのが「いのちを最優先に生きる愛本主義の世界」だからなんです。愛本主義にシフトする上で愛食を起点にするとシフトしやすいね、ということで愛食が出てきた。
だから今の仮説は縦のつながりを感じるという結構ニッチが食体験を指していると思うのですが、ニッチだろうが、愛本主義へのシフトを起こすという目的に対して効力が強いことの方が優先度が高いよね、ということも再確認ができたところもすごくよかったのではないかとも思っています。
愛本主義はわたしのnoteでしょっちゅう出てくるのですが、これを体現、広めたくてやっているので何度も載せちゃう▼
プロジェクトの今後
いったんの仮説を持った上で、このあとはさらに愛食の価値に迫るべく、愛食の力を少なからず感じているチームaiyueyoの仲間に定量・定性双方のアプローチからリサーチをすることになっています。
(チームaiyueyoの皆さん!アンケートは回答依頼がスラックに飛んでいるので、まだの方はぜひ!!)
その結果を踏まえてもう一度ワークショップをして言語化、定義付けも正念場へ…!
まだまだ続く愛食言語化プロジェクト。また進捗を共有したいと思いますのでnote覗いていただけたら嬉しいです。
以上!なるみでした〜。