【小説】奥穂高岳に登る 1.桐生 夫の実家にて その4
「ところで、どうして奥穂高岳なのですか?何か思い出があるとか」
空気を変えようというか、龍子さんの気をそらそうと、誠也さんが気を利かせてくれる。
それについては私も聞きたい。
「そうだね。家族で色々山に行ったけど、一番行ったのが奥穂なんだよね。涸沢にテント張って泊まって、毎日、奥穂とか北穂の山頂まで行って。なんかゆっくりと家族の時間を過ごせたというか。夏休みの家族の想い出ね。だから、いつきとも家族になったし、一緒に行きたいなって」
私なんか大学受験の年にも連れて行かれたもんね、と龍子さんも懐かしそうにしている。
そうだったのか。奥穂高岳は俊にとっては家族の思い出の山だったのだ。夏休みの家族の思い出。それを私とも共有したいと思ってくれたのだ。そこのところは少しうれしい。だけど、
「だったら涸沢でゆっくりしてくればいいんじゃない?カールのあたりをブラブラしてさ。奥穂まで登らなくても、ねぇ」
龍子さん、おっしゃる通り。いい感じの流れでだまされそうになったが、家族の思い出の場所は奥穂高岳というよりは涸沢なのではないだろうか。どちらかといえば。
「涸沢まで行ったら奥穂まで行かなきゃもったいないじゃん」
そりゃそうだけどさ、と龍子さん。
山やってる人の感覚なのだろうか。近くまで行ったら山頂まで行かないともったいないというのは。
「何泊くらいの予定なんですか?」
誠也さんが大事なところを聞いてくれる。
「2泊3日。上高地から入って涸沢まで行って泊まり。次の日に奥穂に登ってから、横尾まで下りる。で、次の日に下山して帰る」
「弾丸登山だがね」
ゆっくりと家族の時間を、ではないようだ。
いや、もしかしたら、日頃働き詰めの俊にとっては歩いている時間も家族との時間ということなのかもしれない。
「いつきちゃんはいいの?大丈夫そう?」
俊のほうを見ると、「行くよね、楽しいよ」という顔で、目をキラキラさせている。
こうなってしまうともうしょうがない。
覚悟を決めるしかないか。
「不安はありますけど、俊さんのオススメの山でもありますし、行ってみたいと思います」
そう答えると、龍子さんもあきらめたのか、危ないと思ったら撤退するのよ、としぶしぶ認めてくれた。
「あと、靴とウェアくらいは買いなさいよ。今は安く買えるところもあるんだし」
あるんだからもったいないよと俊は不満そうだったが、そのくらいちゃんとしなさいと龍子さん。
私も着るものくらいは自分のがほしい。
それからは地図を見てルートを確認したり、テントを立ててみたりして夕方まで過ごした。
買い物は龍子さんが帰る前に付き合ってくれることになった。
こうして私は奥穂高岳に登ることになったのである。
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