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【小説】奥穂高岳に登る 1.桐生 夫の実家にて その3
「せめて八ヶ岳とか、もう少し行きやすいところにしたほうがいくないん。涸沢までだってよいじゃあないんだから。北アルプスにするにしても、常念とか燕とか」
龍子さん、いつの間にか群馬弁になっている。
「その涸沢カールも見せてあげたいんだよね」
俊の決心は揺らがないようだ。
こうと決めたらけっして譲らない。俊にはそういうところがある。店の経営のことだって、心配で何か言っても聞き入れられることはないし。
行きたいなら龍子さん夫妻と行ってくれば?と言いたいところだけど、俊の中では私を連れていくことが大前提。
「見せてあげたい」という恩着せがましい言い方はひっかかるけど、私のことを思ってくれているのは間違いないので邪険にできないか、と思ってしまう。
龍子さんは「はぁーっ」と大きくため息をつく。奥穂高岳についてはあきらめたようだ。
「小屋泊まりなん」
「テントだよ」
龍子さんは大きく目を見開き、信じられないという顔をする。うちの旦那が毎度ごめんなさい。
「小屋泊まりにしたほうがよいのではないでしょうか。初めての人には涸沢までの登りも大変だし、荷物も減らせます」
あきれてものが言えない龍子さんに代わって誠也さんが進言してくれた。
もしかして行ったことがあるのですかと聞いてみると、にっこりとうなずいた。
龍子さんと行ったのなら安心だろうな。それに対してこっちは俊か。日頃の行いを思い返すと不安がさらに増していく。
「小屋にしな。いつきちゃんだってこのレベルの山は初めてなんだし」
「金、ない」
確かにうちの家計はそんなに楽ではない。私が市役所に勤めているから生活費はなんとかなっているものの、俊の店は軌道に乗りはじめたかどうかというところなので、何かと物入りが多い。バカンスを楽しむにもそれなりに経済しないとならないのだ。
「装備はあるの?」
おそるおそる龍子さんが聞く。不安なのだろう。わかる。
「テントとシュラフは物置にあった。いつきの靴は母さんので大丈夫そう。そうだ龍ネェ、ウェアと雨具貸してくんない?母さんのだとちょっと小さいん」
「それくらい買いな」
龍子さん、そろそろキレそう。
「地図はあるよね。さすがに」
「ああ、そこにあったよ。昔使ったやつ」
「10年以上前のじゃない、それ。情報変わってるかもしれないから」
段々熱くなってきている姉に対し、弟は柳に風だ。
収拾がつかなくなりそうになってきている。
大丈夫だろうか。