吉本伊信の内観法
みなさんは「内観」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「内観」と呼ばれる行法はいくつかありますが、今回の記事は吉本伊信が作った「内観(療法)」という行法です。
内観のやり方について、よくまとまった説明文がありましたので引用します。
私は社会人になってから計4回、集中内観(1週間宿泊して一日中内観を行うこと)を行いました。
私の場合は父、母、姉、祖母に対して繰り返し「①お世話になったこと ②して返したこと ③ご迷惑かけたこと」を思い出しました。
最初は中々思い出せないのですが、繰り返し思い出そうとすることにより、だんだんと忘れていたことも思い出せてきます。その思い出したことを少し挙げてみます。
〇父について
・小学校低学年の時、私が自転車に乗れるように何日も付きっ切りで練習に付き合ってくれた
・スキーやミュージカルや釣りなど、私の成長に良いと思えることを積極的に提供してくれた
・私の将来を考え、小さい時から大学に行けるようにと学費を積み立てていた
・中学受験のために塾に通わせてくれた
・私が高校生の時、両親が経営していた食堂がつぶれたが、何とか働き口を見つけて私の大学の学費を払ってくれた
・事故った時、助けてもらった
・鬱になったときに助けてくれた
〇母について
・小さい時は母は夜まで仕事があったが、合間に仕事を抜け出して私を保育所に迎えに来てくれ、夕食をつくってくれた
・実家にいる高校生の時まで、掃除・洗濯は全て母にしてもらっていた。朝も毎日起こしてもらっていた
・食堂がつぶれた時は、父と同様働き口をなんとか見つけ、パートでたいへんな環境で働いてくれた
・独り暮らしの引っ越しの時手伝いに来てくれた
内観をしている時はもっと詳細に思い出せます。
そして、内観では上記のように「お世話になったこと」だけでなく、それに対して「お返ししたこと」と相手に「迷惑をかけたこと」を思い出します。
すると、父や母といった身近な人たちにしてもらったばかりで何もお返しできておらず、それどころか迷惑ばかりかけていたことに気づきます。ある人が上手い表現をしていましたが「ギブ&テイク&テイク&テイク&テイク……」とテイクばかりであることに気づくのです。
ここで大事なのは、内観で調べることはあくまで事実だけである、ということです。「きっとお世話になったことが多いに違いない」とかいう判断を挟まずに、ただただ過去に起きた事実だけを思い出すのです。
そうすると当然「あの時こうして欲しかったのにしてくれなかった!」という恨みとともに思い出すこともありますが、内観では敢えてそこに集中せずに、「お世話になったこと」に集中して思い出して行きます。
すると、不思議なもので、ただ事実を思い出して行くだけなのに相手に対する印象が変わってきます。それまでは「こんなことされて嫌だった!」とか「こうして欲しかったのしてくれなかった!」という恨みが強くある場合でも、「あんなにたいへんな状況だったのにこんなに良くしてくれていたのか……」と思うようになっていきます。
この変化が起きるのは、内観を続けることで「自分目線」だったのが「相手目線」に変わっていくことが影響していると思います。
内観で特に思い出すのは両親に対してですが、親と子は関係性の距離が近すぎるため、どちらも客観的にお互いを見ることが難しいです。特に子どもから親を見る時は、親に「理想の親像」を求めてしまい、そこから外れる親を糾弾してしまうこともあります。
しかし内観によって「お世話になったこと、して返したこと、迷惑かけたこと」を繰り返し思い出して行くと、だんだんと相手の状況に思いを馳せることができてきます。
「あの時父がこう言ったのは、ああいう事情があったからか」
「あの時の母は私の言葉でとても傷ついていたんじゃないか」
そうした思いが自然と出てきます。
大事なのはこの「自然と」というところで、人から説教されてもなかなか納得できませんが、自分で過去を振り返って事実を列挙していくと、その事実の積み重ねから納得せざるを得なくなるんですね。だから気づきがより強力になるのだと思います。
私が内観をして一番の収穫は「親も独りの人間であるということが分かった」ということです。
私は親に「理想の親」像を押し付けていました。そのため、「あの時こうして欲しかったのにしてくれなかった!」「あの時こんなことされて嫌だった!」という恨みを持っていて、それを両親にぶつけてもいました。
しかし、内観でひたすら両親について思い出していたら、両親も私と同じ一人の人間であることが分かったのです。
私は悩んだり迷ったり失敗したりしながら、日々何とか生き延びていました。正しい方向がどこか分からないけど、その時ごとに正しいと思える方向に歩を進めていました。
そしてそれは父と母においても同じだったことに気が付いたのです。
父も母も初めての「親」という役割を、悩んだり迷ったり失敗したりしながら全うしていたのです。私が悩んだり失敗するのと同じように、父と母も悩んで失敗していたのです。
内観をするまでの私は、自分にとって理想的な接し方をしてくれなかった、と父母を批難していたのでした。
父も母も人間である以上、できることとできないことがあります。また、普段ならできても、しんどい状況だとできないこともあります。そのことに私は内観を通して気づくことができました。
それに気づくことができた後は、父と母に抱いていた恨みの気持ちが晴れ、むしろ愛おしい存在になってきました。今まで「親と子」という上下の関係にいましたが、1人の人間として父母を対等な存在と思えるようになったのです。
今でも親と喧嘩することはありますが、それでもかつてのような深刻な恨みを父母にぶつけることが無くなったのは、私にとってとても良いことでした。
私は今は内観をやっておらず、日常的に行っているのは専ら瞑想実践だけですが、内観も一種の瞑想だと思います。ただ、瞑想よりもある特定の方向に特化した部分があり、人によっては劇的にその人の苦しみを除いたり、人間関係を良くしたりする効果があると思います。
この記事を読んで興味を持たれた方は、お近くの内観研修所で集中内観をなさることをお勧めします。
ただ、現在精神疾患(鬱など)を発症されている方は、悪化する可能性があるため、その場合はかかりつけの医師と相談の上、御検討ください。
ちなみに私の一番のおすすめは三重県にある専光坊というお寺です。
めちゃくちゃ厳しい修行道場ですが、その分たいへん修行効果は高いと感じます。私の4回中3回の内観は専光坊で行いました。
御住職自身も修行をされていらっしゃる方で信頼できる方です。
ただ、私が最後に修行したのは10年以上前なので、現在も私の時と同様に修行を受け付けていらっしゃるか分からないため、事前に電話にて確認していただければと思います。
本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
最後まで読んでくださりありがとうございました!