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観念的な心と身体的な心

 心には「観念的な心」と「身体的な心」とでも言うべき別々の領域の心の反応があるのではないか、と最近気づきました。

 例えば、「分かった」という時、頭の中の観念的な理解と、実感・体感を伴う理解は違います。
 「刃物は危ないよ」と注意されたとして、それを頭で理解しているのと、実際にうっかり刃物で怪我をしてしまった時に体感する「刃物は危ない」では、「刃物は危ない」ということへの理解度が違います。
 しかし、これは「理解度の違い」というより、本当は「理解」の領域が違うのではないかな、と思います。

 ちょっとややこしい話になるかと思います。
 初めの「刃物は危ない」という忠告は、体感しているものではなく、言葉によって観念なり概念なりが伝わっているだけです。そこには実際に「刃物」は無いし、自分の身体的な感覚、実感はありません。
 しかし実際に刃物で怪我をしたら、そこには痛みなどの身体的感覚・実感が伴います。言葉だけでは伝わらない、身体的感覚によって「刃物は危ない」ということを理解します。
 そして私は最近、この後者の理解、つまり「身体を伴った理解」というのが大事なのではないかと思うようになりました。


 二つほど、非常に分かりにくい例を出します。普通の人には肯んじ得ない内容かもしれませんが、私の中では非常に納得された例なので敢えて提示します。

 一つは私が最近よくお話している無銘さんの例です。
 無銘さんは仏教の瞑想実践で苦しみから解放されたと言います。しかし、その無銘さんでも崖の前に行くと身体が竦むそうです。頭では恐怖は感じないが、身体が自然とそう反応してしまうそうです。
 その他にも、火の近くでは身体が竦むように反応するそうです。
 この例は、観念的な恐怖から解放されても、身体が発する恐怖に対する反応(身体が竦む)が現れることから、観念的な恐怖とは別に、身体が感じる恐怖、とでも言うべきものがあるのではないか、ということを示しています。

 もう一つの例は、ある方の逸話です。
 その方は人の身体を見て治療などをするいわゆる整体をされている方ですが、そうして人の身体を見ていくうちに気づいたことがあるそうです。それは、「恋をしている人の身体は風邪をひいている時の身体と同じ反応を示す」ということです。
 恋というのは人の心に直結する作用のように思われますが、その人に言わせると風邪で熱に浮かされている時と体の反応としては同じで、恋の熱が冷めるとその身体の反応も収まるそうです。逆に言えば、身体の反応を収めるように治療すれば、恋に浮かされている状態も収まるということです。「恋の病」とはよく言ったものです。
 これも「恋」という精神的な反応と思われるものも、実は身体的な反応の範疇であった、ということを示しています。

 上記二つの例は、にわかには信じがたい要素があるでしょうし、私としても証拠が提出できるわけではないので、信じるかどうかは読者の方々に委ねるしかありませんが、私としては非常に納得できる逸話でした。

 前者の例について私が納得できたのは、私が上座部仏教の瞑想実践に取り組んでいることが影響しているでしょう。
 仏教では教えの教学的な理解も大事ですが、それ以上に実践において理解することを重視します。言葉で理解するのでなく、瞑想によって実感・体感して理解することが大事だと言われます。
 実際、私が仏教によって苦しみを減らすことができたのも、教えを聞いたことより、実際に瞑想をすることで「ああ、説法で語られたことが確かに起きるんだ」と自分の経験として理解できたのが理由です。
 私にも瞑想によって自分自身が変わったという経験があったため、無銘さんの例にも一定の信ぴょう性があると感じたのでしょう。

 後者の例についてすぐに信じられたのも、私が甲野善紀先生の講習会に参加するなどして、身体への影響が心に強くつながっていることを体験していたからでしょう。
 技の名前は思い出せないのですが、甲野先生の講習会で「恐怖心が起こらなくなる手の組み方」というのを教えてもらったことがあります。その手の組み方をすると本当に恐怖心が起こらなくなって、甲野先生が講習で使うために持っていた刀(真剣)を目の前に出されても恐怖心が起こらなくなりました。しかしその手の組み方を崩して同じ状況(真剣が目の前にある状態)になると恐怖心が戻ってきて腰が引けるようになりました。
 そんな風に、身体の状態を変えると心の状態が変わることを経験していたので、後者の例もすっと信じられたのだと思います。


 今まで私は「身体の状態が心に影響を与える」と思っていました。しかし上記の例が私の中で結びついて別の考えが生まれました。つまり、私が「心」と認識しているものは実は領域の違う別々のものを混同して認識しているだけなのではないか、そして、その内の一つの領域は「心」というよりも身体の反応とでも言うべきものなのではないか、ということです。
 私が心と呼んでいるものは実は、「観念的な心」と「身体的な心」とでも呼ぶべき二つの領域があるのではないか、と言い換えられるかもしれません。


 分かりにくくややこしい話をしている自覚はあります。しかしこの話を言語化するのが自分にとって大事だと思えるので言語化を続けます。


 「観念的な心」というのは、おそらく普通に私や皆さんが考える「心」です。テレビでコマーシャルしてるものを買いたくなるとか、SNSの攻撃的な投稿を見て気分がふさぐとか、明日のことを考えて不安になるとか、そういったことです。「思弁的な心」と言っても良いかもしれません。意識、頭偏重の心です。

 それに対して「身体的な心」というのもあると思います。
 この「身体的な心」に関しては、私が明確に捉えられていない可能性があるので例示が難しいのですが、例えば無銘さんの例でいうと崖の近くに行くと身体が竦んでしまう反応です。無銘さんはそこで恐怖を覚えないそうですが、私ならきっと足が竦むと同時に恐怖を覚えるでしょう。
 いや、正確には、「『足が竦む』という身体反応を脳が『恐怖を覚えているんだ』と認識してしまう」という状態でしょうか。ますますややこしいですね。
 つまり、「恐怖」という心の反応が先にあって、それで身体が竦むのではなく、身体が竦むという身体反応が先にあって、それから心(脳)が恐怖を認識するのではないか、ということです。

 恐怖→身体が竦む という反応ではなく、
 身体が竦む→恐怖 という反応と言うことです。

 この、恐怖をもたらす「身体が竦む」という反応が私が「身体的な心」と呼びたい現象です。

 おそらく、甲野先生や例に挙げた整体の方のように、人間の身体と深く関わり、観ている方々は自然とその「身体的な心」に目が向いているのだと思います。
 「観念的な心」ではなく、「身体的な心」で納得されたことは、本人においては確信を伴うので人の意見に左右されることはありません。あくまで個別的、主観的な納得なので、他人にまで敷衍される内容とは限りませんが、自分においては揺るぎない確信として刻まれます。
 職人やスポーツ選手など、身体を使って仕事をしている方々の言葉に重みを感じることがあるのは、「身体的な心」で経験し、確信を得たことから言葉を発しているからでしょう。その言葉が他人にまで適用されるかは別として、本人としては確信をしているからこその重みがあるのだと思います。

 

 ちょっと今回はうまく言語化できている気がしません。例示した事例もいまいち述べたい内容と合致している感触がありません。
 一つには私自身がまだ「身体的な心」についての理解が深まっていないからでしょう。私の中で、観念的な心と身体的な心がうまく腑分けできていない感触があります。私の心に浮かんでいる思考や感情や感覚の、どこからが観念的な心でどこまでが身体的な心なのか、それが体感として私には分かっていないようです。
 ひとまず今回は、観念的な心と身体的な心はそれぞれ別の領域としてある、ということに気づけたということを言語化できただけで良しとします。
 このテーマは、今後もっと深めていきたいと思います。


 書いている本人もよく分かっていない文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!